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浮世書斎と未亡の刃  作者: 亀


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第三章 刃なき剣と、仮面の亀裂

幽青色の炎が長戟の刃先で揺らめいていた。


その光が、狭い書斎の中を明るくしたり、暗くしたりする。


白磁の仮面を被った執行者には、もはや余計な言葉など必要なかった。


腕を一振りする。


重装鎧が擦れ合い、耳障りな金属音を響かせた。


次の瞬間。


足元の木床が轟音とともに弾け飛ぶ。


巨体が、まるで放たれた砲弾のように林野の顔面へ突っ込んできた。


手にした長戟が、空気を引き裂くような唸りを上げながら横薙ぎに振り抜かれる。


――速い!


林野の心臓が、一気に跳ね上がった。


修仙界において、林野はまだ鍛気期の入り口にすらまともに立てていない、底層の小さな店主にすぎない。


こんな正規の執行者による雷霆の一撃を前にすれば、身体の本能でさえ反応する暇がなかった。


だが。


長戟が身体へ届く、その寸前。


林野の手に握られた刃なき聖剣が、まるで自らの意思を持ったかのように震えた。


剣の背に刻まれた古い文字が、突然、眩い金色の光を放つ。


「――ガァンッ!!」


耳をつんざくほどの金属音が、狭い書斎を揺らした。


残っていた窓紙が、今にもすべて破れそうなほど震える。


林野は、まるで山がそのまま押し倒してきたかのような凄まじい力を感じた。


その衝撃が剣柄から全身へと伝わる。


手のひらが一瞬で裂け、血が流れ出した。


身体はそのまま七、八歩も後方へ弾き飛ばされる。


そして背中から、後ろの本棚へ激突した。


ドサドサドサッ!


黄ばんだ古書が大量に床へ落ちていく。


「所詮、蟻は蟻だ」


白磁の仮面越しに響く執行者の声は、冷たい。


そこには、上から下へ一方的に人間を裁く者の響きがあった。


「どこのゴミ捨て場から拾ってきたのかも分からぬ、壊れかけの剣一本で――『脚本』の進行に干渉するつもりか?」


執行者は長戟を片手で引きずりながら、一歩ずつ近づいてくる。


足元では幽青色の炎が床を焼き、息が詰まるような「規則」の圧力が周囲を支配していた。


林野は歯を食いしばった。


口元から流れた血を拭う。


そして、相手の感情すら感じさせない白磁の仮面を見つめ――


突然、笑った。


どこか嘲るような笑みだった。


「何が『脚本』だよ……」


林野は口元を拭いながら言った。


「朝っぱらから人の商売を邪魔して、そのうえ俺の門まで壊しやがって」


そして、肩をすくめる。


「今日、たとえ天王様が来たってな――」


「この店の客人を、お前には連れていかせない」


その言葉が落ちた瞬間。


林野の瞳から、さっきまでの戸惑いも、軽口も消えた。


そこに残ったのは、頑固なほど澄み切った光だった。


そして、熱。


林野は後退しなかった。


むしろ、両手で刃のない聖剣を強く握りしめ――


自ら前へ踏み込んだ。


「答えが分からなくても……」


一歩。


「目の前にいる人を、俺は守る!」


その瞬間。


意識の奥底から、何か曖昧な声が遠く響いた。


まるで、どこか遠い場所から呼びかけているような声。


林野の身体を流れる血が、燃え上がったように熱くなる。


刃なき聖剣から放たれていた金色の光が、もはや単なる防御の力ではなくなっていく。


それは、激しく揺らめく熱い炎へと変わった。


「身の程知らずが!」


執行者が冷たく吐き捨てる。


長戟が一閃。


幽青色の光幕となって、林野の頭上へ振り下ろされた。


林野は避けなかった。


いや。


避ける方向を選んだ。


身体を極端に低くし、床すれすれを滑るように前へ入り込む。


長戟の刃が、髪一本ほどの距離で頭上を通り過ぎた。


その瞬間。


林野の聖剣が、下から斜め上へと跳ね上がった。


狙ったのは、執行者の重装鎧ではない。


長戟と執行者の手首を繋いでいる――


「論理ノード」。


そこへ、寸分違わず刃なき剣を叩き込んだ。


――パキン。


空気の中で、ガラスが砕けたような音が響いた。


それは、因果の規則そのものが強引に引き裂かれた音だった。


執行者の動きが、突然止まる。


長戟に燃えていた幽青色の炎が激しく揺らめき――


一瞬だけ、完全に停止した。


「な……に……!?」


白磁の仮面を被った執行者が、初めて驚愕の声を漏らした。


その攻撃ロジックは、「至高脚本家会」から与えられた絶対判定。


それがなぜ。


修仙の門すらまともにくぐっていない、ただの凡人の店主に――


強引に弱点を見抜かれたのか。


「――捕まえた」


林野の目に、一瞬だけ鋭い光が走った。


そのまま前へ踏み込む。


執行者の懐へ、身体ごと飛び込んだ。


手の中の聖剣が無数の金色の残像を描く。


そして――


執行者の胸部を覆う重装鎧へ、何度も激しく叩き込んだ。


血肉が飛び散ることはなかった。


そこにあったのは、純粋な「規則」と「規則」の衝突。


そして、崩壊。


――ドォン!


凄まじい衝撃音が書斎を揺らした。


執行者の銀色の重装鎧に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。


巨体が何度も後退し――


最後にはカウンターへ激突した。


カウンターが大きく傾き、執行者はそのまま床へ片膝をついた。


そして。


その白磁の仮面にも――


大きな亀裂が走っていた。


「お前……一体、何者だ……?」


執行者は胸を押さえながら、初めて声を震わせた。


林野は片膝をついていた。


肩で大きく息をしている。


手の中の聖剣も、先ほどまでの輝きを失い、かなり薄暗くなっていた。


それでも林野は、ゆっくりと立ち上がった。


そして、執行者を冷たく見つめる。


「言っただろ」


「俺は、この書斎の店主だ」


林野は一歩前へ出た。


「今すぐ、俺の第七街区から出ていけ」


執行者は、しばらく林野を睨みつけていた。


やがて、その視線が内屋へ向かう。


そこには、意識を失ったまま眠る負傷した女がいた。


執行者は歯を食いしばった。


今日、力ずくで女を連れ去ることは――もうできない。


「……チッ」


小さく舌打ちする。


そして、苦しそうに立ち上がると、その身体は一筋の残像へ変わった。


夜の闇へと、逃げるように消えていった。


敵が去った瞬間。


書斎を満たしていた張り詰めた空気が、一気に緩んだ。


林野は、ようやく限界を迎えた。


手の中の聖剣が、無数の光の粒となって消えていく。


「……うっ」


林野はその場にどさりと座り込んだ。


散らばった木片と古書の山の中で、痛みに顔をしかめる。


「いてて……」


そして、ため息をついた。


「こんな厄介な仕事……」


「今度、あの婆さんに精神的損害の慰謝料でも上乗せしてもらわないとな……」


林野はよろめきながら立ち上がろうとした。


内屋で眠っている女の傷の具合を、もう一度確認するためだ。


――そのとき。


外の空から、先ほどとは比べものにならないほど重い轟音が響いた。


「……何だ?」


林野は顔を上げた。


そして、引き裂かれた夜空を見つめる。


遠く。


雲中坊市の中心区域。


そこから、無数の幽青色の光柱が地面から天へ向かって、一斉に立ち上がっていた。


その光柱の最上部。


そこには――


巨大な本の幻影が、ぼんやりと浮かび上がっている。


あまりにも巨大だった。


一つ一つの頁が、ゆっくりとめくられていく。


そして、その巨大な本そのものが――


ゆっくりと、この世界へ降りてきていた。


林野は、ただ黙ってそれを見上げていた。


世界中の空気が。


まるで、この瞬間だけ凍りついたかのようだった。

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