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浮世書斎と未亡の刃  作者: 亀


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第二章 廃墟の中の客人と、持ち主なき契約

第七街区の空気には、まだ焦げ臭さが残っていた。


そして、完全には消え去っていない微かな金色の光が、薄暗い路地のあちこちに漂っている。


林野は慎重に、唖叔をそのまま書斎にある唯一の古びた竹椅子へ寝かせた。


鼻先に手を当てる。


呼吸はまだ少し速い。


だが、脈はすでに落ち着きを取り戻していた。


額に張りついていたあの奇妙な青白いコードも、完全に灰へと変わっている。


「ふう……なんとか命は拾ったか」


林野は腰を伸ばし、凝り固まった首筋を揉んだ。


そこで初めて、自分の両手が微かに震えていることに気づいた。


さっき一瞬だけ頭の中へ流れ込んできた光景。


あまりにも膨大だった。


まるで、何千、何万もの自分とは無関係な記憶の断片が、一気に神経を引き裂こうとしていたかのようだった。


そして、もう一つ。


あの本の背表紙で形作られた刃のない聖剣を握ったとき。


この古びた書斎の床板。


そのさらに下。


そこに何かが存在し、自分の心臓の鼓動に合わせるように、かすかに共鳴していた。


――そんな感覚が、確かにあった。


「……なんなんだよ、ここ」


林野が小さく呟いた、そのときだった。


「ギイ……」


半開きになっていた書斎の木戸が、外側からゆっくりと押し開けられた。


同時に、冷たい夜風が店内へ吹き込んでくる。


そして一つの人影が、よろめきながら転がり込んできた。


「おい……店主……助け……て……ゴホッ、ゴホッ……」


若い女だった。


身にまとっている墨黒の長衣は見る影もないほど破れ、その肩の大部分が露出している。


衣服には、目を背けたくなるほど大量の血が付着していた。


腰には、半ばから折れた制式長剣を斜めに差している。


しかし、林野が最も目を奪われたのは、その目だった。


両目の周囲には淡い青白い光がまとわりついている。


そして、その光は少しずつ消えかけていた。


――「虚構の書」によって、記憶そのものを強制的に侵食され、書き換えられた痕跡。


林野は一瞬、呆気に取られた。


だが、ほとんど反射的に駆け寄る。


「おい、危ない!」


倒れかけた女の身体を、林野は慌てて支えた。


「その怪我……一体どうしたんだよ?」


女はふらつきながらカウンターへ身体を預けた。


荒い息を繰り返している。


その目には、警戒と絶望が入り混じっていた。


そして林野を睨みつける。


「触らないで……」


かすれた声だった。


「外の夜巡隊は……もう『書頁』に同化されてる……」


女は息を詰まらせながら続ける。


「この通り……この通りにいる人間が、みんな私を探してる……ゴホッ!」


次の瞬間。


女は激しく咳き込んだ。


口から黒い血が吐き出される。


そして、その身体から完全に力が抜けた。


「おい!」


林野はとっさに身体を抱き留めた。


腕の中にある身体は、驚くほど軽かった。


紙のように白い顔。


そして、ほとんど感じ取れないほど弱い呼吸。


林野は思わず苦笑した。


「まったく……」


「一人助けたと思ったら、今度はもう一人かよ」


女を抱えたまま、林野は書斎を見回した。


「今日のうちに、このボロ書斎が避難所にでもなったのか?」


口ではそう言いながらも、迷いはなかった。


林野は女をそのまま奥の部屋へ運び込み、自分が普段使っている一人用の寝台へ寝かせる。


古びたが、まだ清潔な布団を引っ張り出して、彼女の身体にかけた。


それから、普段自分が使っている金創薬と清水を取り出す。


決して手慣れているわけではない。


それでも、ぎこちない手つきで傷口を洗い始めた。


肩に付着した血を少しずつ拭い取っていく。


そのときだった。


林野の手が止まった。


女の鎖骨の下。


そこに、極めて奇妙な金色の紋章が刻まれていた。


巨大な歯車。


その歯車には、目に見えない鎖が何重にも絡みついている。


「……これは」


林野は眉をひそめた。


「雲中坊市の地元宗門の紋章じゃないな……」


先ほどの青白い紙片。


唖叔の異変。


そして、目の前で倒れている正体不明の女。


それらを頭の中でつなぎ合わせる。


どうやら、外の世界では自分には理解できないほど恐ろしい何かが起き始めているらしい。


だが、答えは出なかった。


林野が考え込んでいた、そのとき。


寝台の上の女が突然、苦しそうに呻いた。


両手で布団を強く握りしめる。


目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


唇が微かに動く。


「やめて……」


「それを……壊さないで……」


途切れ途切れの寝言だった。


「それは……私たちの最後の……」


その先は、聞き取れなかった。


林野は黙って女を見つめた。


なぜか。


胸の奥を、針で刺されたような感覚がした。


だが、彼は女が何者なのか尋ねなかった。


追われている理由も聞かなかった。


重傷を負った逃亡者を匿えば、この小さな書斎にどれほど面倒なことが起こるのか――そんなことも考えなかった。


ただ、近くにあった椅子を引き寄せる。


そして寝台の横に腰を下ろした。


温かい水で濡らした布を取り、女の額へそっと置く。


「ほら、ほら……もういい」


林野は小さな声で呟いた。


「ここまで来て倒れたんだろ」


「だったら、お前はもう俺の客だ……」


少しだけ間を置いて、林野は続けた。


「俺が林野である限り、この部屋から誰かを勝手に連れていかせたりはしないよ」


その瞬間だった。


――ドンッ!


異変が、再び起こった。


「浮世書斎」全体が、突然激しく震え始めた。


古びた床板が軋む。


両側の壁に積み上げられていた大量の古書が、押し潰されるような嫌な音を立てた。


そして。


本棚の最上段。


長年、誰にも手に取られることのなかった黄ばんだ雑史の本が――


一斉に開いた。


バラバラバラッ!


無数の古い文字が、ページから剥がれ落ちていく。


淡い光を放つ文字列が、まるで生き物の群れのように空中へ浮かび上がった。


林野は立ち上がった。


「……何だよ、これ」


文字は空中で渦を巻き始める。


そして次の瞬間。


書斎の中央。


何もない空間に、巨大な半透明の本の幻影がゆっくりと姿を現した。


一枚。


また一枚。


巨大な本の頁が、ひとりでにめくられていく。


やがて。


その頁は、一つの完全な空白の章で止まった。


そして――


淡い金色の光を放つ文字が、まるで水が流れるように、何もない頁の上へ次々と浮かび上がっていった。


文字と文字が絡み合い、


一つの文章を形作っていく。


林野は息を呑んだ。


その瞬間。


空白だった頁に、最初の一行が現れた。


【第二巻:雲中坊市の持ち主なき契約】


【現在の避難者数:2/目標:不明】


【規則干渉度:0.03%】


【警告:旧世界の残片が接近中。第一の「追跡者」が第七街区に到達しました。】


「……何だ、これ?」


林野が呆然と文字を見つめた、その直後だった。


――ドォン!


重々しい轟音が、書斎全体を揺らした。


固く閉ざされていた木戸が、門枠ごと凄まじい霊力によって吹き飛ばされた。


木片が四方八方へ飛び散る。


舞い上がった煙塵の向こうから、一つの巨大な人影が現れた。


その男は、雲中坊市における最高位の執行権を象徴する、銀色の重装鎧を身につけていた。


顔には、何の表情も刻まれていない白磁の仮面。


手には、幽青色の炎を纏った長戟が握られている。


その声には、人間らしい温度が一切なかった。


「『浮世書斎』店主、林野」


「異端の残片を私蔵し、神聖なる脚本への干渉を行った」


「至高脚本家会の名において――ここで処刑する」


林野はゆっくりと立ち上がった。


そして、服についた埃を軽く払う。


一度だけ、背後を振り返った。


そこには、傷ついた女が眠っている。


林野はその姿を確認すると、再び正面を向いた。


目の前には、幽青色の炎を燃え上がらせる長戟。


林野の口元に、諦めたような苦笑が浮かんだ。


「処刑?」


林野は小さく息を吐く。


「なあ、そこの仮面のお兄さん……」


深く息を吸う。


そして、両手を空中へ差し出した。


掌の中に、無数の古書の背表紙が絡み合い、光をまとい始める。


次の瞬間。


――あの刃のない聖剣が、再びその手の中に姿を現した。


金色の光が、林野の瞳を照らす。


その目には、恐怖はなかった。


ただ、少しだけ困ったような色が浮かんでいる。


「家賃もまだ払い終わってないのに、勝手に店を壊そうってのか……」


林野は剣を構えた。


そして、目の前の仮面の男を真っ直ぐ見据える。


「――この店の店主に、ちゃんと聞いてからにしてくれよ」

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