第一章 雲中坊市の家賃催促日と、舞い降りる雪
雲中坊市の朝には、いつも粗悪な霊石を燃やしたときに出る、鼻を刺すような焦げ臭さが漂っていた。
そこへ、焼きたての煎餅果子から立ちのぼる油の香りが混じる。
万丈もの高空に浮かび、無数の木造の足場と空中に浮かぶ石板を幾重にも積み重ねて造られた巨大な坊市。
そこは、底層の散修や凡人たちにとっての避難所であり、同時に巨大な高空の蜂の巣でもあった。
その中でも、最も薄暗く、一年を通して陽の光がほとんど届かない「第七街区」。
その路地の奥に、いつ倒産してもおかしくないような小さな店が一軒、ひっそりと挟まっていた。
――「浮世書斎」。
店内は狭い。
二面の古びた本棚には、廃品回収業者でさえ場所を取るからと嫌がりそうな修仙界の雑史、期限切れの『坊市週報』、そして意味の分からない断片的な孤本が、所狭しと詰め込まれている。
空気には、長年放置された紙の黴臭さが染みついていた。
そのとき。
書斎の木戸が、まるで叩き壊すかのような勢いで何度も叩かれた。
続いて、甲高く刺々しい怒鳴り声が響く。
「林野! このガキ、死んだふりしてんじゃないよ! 今日はもう二十五日だよ! 先月分の店の使用料に霊気税、それからこのボロ書斎の家賃まで合わせて、全部で下級霊石三個! 今すぐ払わないなら、このボロ店の扉を引っぺがして薪にするからね!」
店の中では、何度も洗われて色の抜けた青い長衣に、いくつもの継ぎ当てをした青年が、一人用の粗末な寝台から慌てて這い出していた。
無精髭は伸び放題。
髪はまるで鳥の巣のように乱れている。
彼こそが、この書斎の店主――林野だった。
林野は慌ただしく上着を羽織りながら、風の入り込む布靴を引っかけ、三歩を二歩にする勢いで木戸へ駆け寄った。
そして扉を開けた瞬間、その顔には、ほとんど媚びるような満面の笑みが浮かんだ。
「おやまあ! 張おばさん、わざわざ来てくださったんですか! こんな朝早くから外は風が強いでしょう。ほら、中に入って温かいお茶でもどうぞ……家賃のことなんですけど、あと二、三日だけ待ってもらえませんか? 昨日、南市の王じいさんがうちから『養生霊植指南』を一冊持っていったんですが、まだ砕霊石を払ってくれてなくて……」
張おばさんと呼ばれた太った修士は、白けた顔で目をひっくり返した。
そして林野を押しのけると、ずかずかと書斎の中へ入り込み、周囲を見回してから、嫌そうに唾を吐いた。
「その手には乗らないよ! 王の爺さんなんて、もう棺桶に片足突っ込んでるじゃないか。あいつの霊石で飯が食えるのかい? 林野、あんたねえ。毎日こんな紙切れの山を守って、一体何になるんだい? あんたが一人暮らしで、まあ大人しい奴だから見逃してやってるけどね。そうじゃなきゃ、とっくにこの店を法器屋の劉さんに貸してるよ!」
林野は怒るどころか、相変わらず笑顔を崩さなかった。
カウンターの下から油紙に包まれた、まだ温かい大きな肉まんを取り出すと、両手で差し出す。
「まあまあ、張おばさん、そんなに怒らないでくださいよ。これは通りの張じいさんが焼きたてで作った獣肉まんです。おばさんのために、ちゃんと取っておいたんですよ。家賃は絶対に一枚も欠かしません。三日後、三日後には利子もつけて、きっちり持っていきますから!」
張おばさんは手の中の肉まんを見つめた。
その表情が、わずかに和らぐ。
「……まあいい。あんた、普段から口だけは達者だからね。今回だけ三日待ってやるよ。ただし、忠告しておくけどね。最近、坊市の外はどうも妙なんだ。北のほうから、どこからともなく妙な冷気が流れ込んできてる。護城大陣まで何度も明滅してるんだ。夜は外をうろつくんじゃないよ。何かあっても、誰もあんたの遺体を拾ってくれやしないからね!」
「分かりました、分かりました! 忠告ありがとうございます!」
林野は何度も頷きながら、腰を揺らして去っていく大家を見送った。
張おばさんの姿が完全に見えなくなってから、林野はようやく大きく息を吐いた。
そしてカウンターの奥にある藤椅子へどさりと腰を下ろし、凝り固まった肩を揉んだ。
林野には、自分でもうまく説明できない秘密があった。
自分は、この世界の人間ではない。
――あるいは、そうなのかもしれない。
彼の意識の奥底には、いつからともなく奇妙で現実離れした断片が眠っていた。
ときおり思う。
この世界は、見えているほど単純なものではない。
だが、今の林野には「天道」だの「高次元」だのを探究するような余裕はなかった。
生きていくこと。
この通りで互いに支え合って暮らしている隣人たちが、せめて腹を空かせずに済むこと。
そして、このボロ書斎を潰さないこと。
今の彼にとって、それだけが世界のすべてだった。
しかし、その日の異変は、昼を過ぎた頃から姿を現し始めた。
最初に異変に気づいたのは、隣で豆腐を売っている唖叔だった。
唖叔はよろめきながら書斎へ駆け込んできた。
その手には、空から舞い落ちてきた一枚の紙片が握られている。
淡い青白い光を放つ、異様な紙片だった。
それは修仙界で一般的に使われている獣皮紙でも霊紙でもない。
表面には、冷たい生き物のように蠢く、小さな記号が無数に浮かび上がっていた。
「林……林店主……」
唖叔は震える手で、その紙片を指差した。
口から漏れる声は、いつもの彼からは想像できないほど怯えていた。
林野は眉をひそめた。
そして手を伸ばそうとした――その瞬間。
青白い紙片が、突然、風もないのに宙へ浮かび上がった。
次の瞬間。
一筋の光となって、唖叔の額へ一直線に張りついた。
「ドンッ!」
目に見えない波紋が、唖叔を中心として一気に広がった。
温厚だった唖叔の両目が、一瞬で真っ赤に染まる。
粗布の衣服が歪み始め、皮膚の表面には、まるで太古の神話に登場する青面獠牙の怪物を思わせる影が浮かび上がった。
唖叔は腰に差していた豆腐切り用の薄刃の短刀を抜き放つ。
そして、人間のものとは思えない咆哮を上げると、すぐ横にあった木製の棚へ向かって刀を振り下ろした。
――バキッ!
頑丈な赤木のカウンターが、真っ二つに叩き割られた。
「唖叔! 何やってるんだ!?」
林野は身をひねって刃をかわすと、目の前で正気を失った隣人を見た。
一瞬たりとも迷わなかった。
「放せ! 周りの奴らが見てる……いや、違う。これは唖叔じゃない!」
林野は叫びながら飛びかかり、唖叔の刀を握った腕を両腕で必死に抱え込んだ。
相手の力は凄まじかった。
林野は少しずつ押し込まれ、ついには背中を本棚へ強く打ちつける。
その瞬間だった。
異変が起きた。
書斎の最奥。
長年、埃をかぶったまま放置されていた古びた剣匣から、澄み切った龍吟のような音が響いた。
「――ヴン……」
次の瞬間。
眩い金色の光が剣匣から天へ向かって噴き上がった。
薄暗かった書斎全体が、昼間のように明るく照らされる。
同時に、坊市の上空を覆っていた分厚い雲が、まるで何かに引き裂かれたかのように、一筋の裂け目を見せた。
剣匣の中から飛び出したのは、刃の存在しない奇妙な長剣だった。
その刀身は、無数の分厚い古書の背表紙と、複雑に絡み合う光によって形作られている。
それは一筋の光となって飛び、寸分違わず林野の手の中へと収まった。
重い。
それは、幾千、幾万もの悲劇と希望を背負ったかのような重さだった。
林野が柄を握った瞬間。
頭の中で、何かが轟音を立てて弾け飛んだ。
見知らぬ光景が、無数に流れ込んでくる。
それは、運命の絶望の中でもがきながら、それでもなお光へ向かって剣を振ろうとした、無数の壊れた魂たちの姿だった。
この剣がどこから来たのか。
林野には考える暇すらなかった。
目の前では、紙片に支配された唖叔が、今にも息絶えようとしている。
林野は歯を食いしばった。
その瞳に恐怖はない。
ただ、熱く、頑固なほどの決意だけが宿っていた。
「お前が何のクソみたいな物語だろうが、どこのツイてない世界から落ちてきたんだろうが……」
林野は両手で刃のない聖剣を握りしめる。
そして、前へ突き出した。
剣先が、唖叔の額に張りついた青白い紙片へ正確に触れる。
「――こいつは、俺の隣人だ!」
轟音。
金色の光と青白いコードが、空中で激しく絡み合った。
血まみれの殺し合いなど、そこにはなかった。
ただ、巨大な書物がめくられていくような音だけが響いていた。
その瞬間、林野は聞いた。
世界の底層ロジックが、耐えきれずに軋み、悲鳴を上げている。
やがて最後の金色の光が消えた。
第七街区の路地に、死んだような静寂が戻ってきた。
唖叔は白目をむき、そのまま意識を失った。
力なく倒れ込んできた身体を、林野が慌てて受け止める。
額に張りついていた青白い紙片は、すでに生命を失った灰へと変わり、風にさらわれて消えていった。
林野は荒い息を繰り返した。
手の中にあった奇妙な聖剣は、ゆっくりと無数の光の粒へ変わり、空気の中へ溶けていく。
林野は唖叔を慎重に藤椅子へ座らせた。
そして額の冷や汗を拭い、窓の外を見上げた。
そこには、雲中坊市の上空にぽっかりと開いた裂け目があった。
そして――
坊市の最果てから、無数の青白い光が降り注いでいた。
まるで、暴雨のように。
裂けた天幕から降り落ちた無数の光は、広大な修仙界の各地へと次々に落下していく。
新しい世界の「頁」は――
まだ、最初の一頁をめくったばかりだった。




