第四十四章 鏡が砕けた後の核心債務
轟々――!
第108号支流「鏡中浮世ワルツ」の宮殿全体が大きく崩れ落ちる。
それまで美しく輝いていた記憶の鏡は、今やことごとく砕け散り、無数のガラス片となって空中を舞っていた。
辺りに響いていた古典交響曲は、とうに途切れている。
代わりに響き渡っているのは、偽りの物語が破綻したことで、高次元データの奔流が逆流してくる耳障りな蜂鳴音だった。
黄金の笑顔の仮面をつけていた支流代理人は、崩れかけた水晶の玉座の前に両膝をついていた。
高次元の礼装はところどころ剥がれ落ち、その下からは青いコードの亀裂が無数に走る、機械の残骸のような身体が露出している。
彼は恐怖に歪んだ顔を上げ、林野を凝視した。
声は、もはやまともに震えていた。
「お、お前……! お前は、編劇会が三つの紀元をかけて築き上げた『物語の閉環』を……壊したんだぞ……! 総本部がお前を見逃すはずがない! 首席裁決長様がお前を見ているんだ! 多次元宇宙の中心からな!」
「総本部?」
林野は鼻で笑った。
相手の前で足を止めることすら面倒だと言わんばかりに、そのまま歩きながら腰元の帳簿を軽く叩く。
帳簿は、今も温かな金色の光を放っていた。
林野の口調は、まるで水道代も電気代も払わない厄介な客人を追い払うような、気の抜けたものだった。
「だったら、目ぇ見開いて、よく見てろ」
林野は肩をすくめる。
「今日から、この第108号支流の破産清算権は浮世書斎のもんだ」
そして、少しだけ振り返った。
「それから、お前らの言う首席裁決長ってやつにはな……」
口元に、いつもの薄い笑みが浮かぶ。
「俺が借金を全部取り立て終わったら、帳簿を持って総本部まで行ってやるよ」
「……」
「そこで――ゆっくり、帳尻でも合わせようじゃねえか」
そう言い残すと、林野は顔面蒼白になった支流代理人をもう相手にせず、広間の奥へと歩き出した。
そこには、かつて黄金の笑顔の仮面の男が必死に隠していた、この支流の底層があった。
鏡の世界を覆っていた幻影が完全に消え去ったことで、ついにその本当の姿が露わになったのだ。
――それは、虚空に浮かぶ古びた円形の祭壇だった。
そして祭壇の中央。
そこには、古びた羊皮紙のような光を放つ、二つ目の「初期原稿」の残片が浮かんでいた。
無数の因果が渦を巻く、その中心で。
静かに。
ただ静かに。
微かな光を放ちながら、しかし途方もなく巨大な歴史の波動を周囲へと放っている。
「林野、気をつけて」
墨清とレインが急いで後を追ってくる。
墨清は周囲を見回しながら、手にした断剣を警戒するように構え続けていた。
刃からは、澄んだ剣鳴りが絶えず響いている。
「鏡の世界そのものは壊れた。でも……ここからが本当の因果反噬みたい」
墨清の視線が祭壇へ向く。
「編劇会は、ここに極めて巨大な『因果防衛禁制』を残している」
一方、レインはそんな説明を聞くなり、箱の中から大型の機械式探査装置を放り出した。
画面には、赤い警告数値が狂ったような速度で跳ね上がっている。
それを見たレインは、口の端を吊り上げた。
「おいおい……こいつはすげえな。エネルギー波動が核融合炉よりよっぽど刺激的だ」
そして、目の前に浮かぶ初期原稿の残片を見る。
「だが……原稿が目の前にあるんだろ?」
レインは機械式探査装置を肩に担いだ。
「だったら、禁制だろうが何だろうが関係ねえ。ぶっ壊して取ればいい!」
後方で五重にも六重にも拘束され、転がされていたカールも、壊れた因果法陣の向こうに浮かぶ初期原稿の残片を見つけた。
その顔色が、再び激しく変わる。
「二つ目の原稿……」
カールは、呆然と呟いた。
「お前たちは……本当に、あれだけ偽りの帳簿で埋め尽くされた鏡の世界から、原稿を見つけ出したというのか……?」
声が震える。
「そんな……あり得ない……」
そして、力なく首を振った。
「絶対に……あり得ない……!」
林野はそんなカールの驚きには目もくれなかった。
円形の祭壇の前まで歩み寄り、わずかに目を細める。
墨清の言った通りだった。
残片の周囲には、至高編劇会が直接刻み込んだ無数の暗号化された法則の鎖が絡みついている。
一本一本の鎖には、細かな審判条項がびっしりと刻み込まれていた。
外部の者が無理に触れれば――
この支流全体の自壊プログラムが、一瞬で起動する。
だが。
林野の口元には、すでに勝算を確信したような笑みが浮かんでいた。
ゆっくりと右手を伸ばす。
真気を使うこともしない。
無刃聖剣を抜くこともしない。
ただ、自分の厚い帳簿を祭壇の縁にそっと押し当てた。
そして、低い声で呟く。
「……こんだけ長いこと滞納してたんだ」
帳簿の表紙を指先で軽く叩く。
「そろそろ――署名捺印してもらう時間だろ」
轟――!!
林野の掌から因果契約が流れ込んだ瞬間。
帳簿が、勢いよく開いた。
かつてないほど眩い金色の光が、一気に噴き出す。
北境総館の契約鍵。
そして、第77号支流に残されていた因果の残響。
二つの力が、この瞬間、遥か彼方で呼応した。
次の瞬間――
それらは一つとなり、抗いようのない荒々しい力へと変わった。
巨大な金色の奔流が、祭壇を包む因果防衛禁制へと――
真正面から、
力任せに、
叩き込まれた。




