第四十三章 偽りの帳簿と鉄拳の交響曲
「舞踏場を差し押さえる?」
巨大なクリスタルの玉座に立つ黄金の笑顔の仮面の男は、わずかに動きを止めた。
まるで、この多次元宇宙で最も馬鹿げた冗談を聞かされたかのようだった。
男は手にしていた血のように赤い酒を一気に飲み干す。
そして――
持っていたグラスを、赤褐色の床へ叩きつけた。
パリンッ!
澄んだ破砕音が響く。
その瞬間、黄金の笑顔の仮面の男の身体から、数十本もの眩い高次元の偽装コードが一気に噴き出した。
優雅だったその姿が、空気の中で突然ねじ曲がる。
人の姿が崩れ――
無数の因果鎖が絡み合った異形へと変わっていく。
その声もまた、鋭く狂ったものへ変貌した。
「身の程知らずの流浪店主め!」
「この鏡の世界では、『物語権限』こそが絶対の真理だ!」
「歴史そのものが偽造された虚無の世界を――お前はいったい何を使って封鎖するつもりだ!」
轟隆――!
男の怒声と同時に、巨大な宴会場の天井と壁が、一斉に鏡へと変化した。
無数の巨大な「記憶の鏡」が、瞬く間に空間を埋め尽くしていく。
そしてその鏡面には――
林野。
墨清。
レイン。
三人の姿が、無数に映し出されていた。
次の瞬間。
先ほどまで何の感情も見せず踊っていた「仮面の客人」たちが、一斉に顔の仮面を引き剥がした。
その下から現れたのは、人間ではなかった。
高次元の刃を握った鏡面殺戮機械。
数え切れないほどのそれらが、一斉に中央へ向かって押し寄せてくる!
「林野、気をつけて!」
墨清の断剣が瞬時に鞘から抜かれた。
澄んだ剣鳴りが、密度の高い剣罡へと変わる。
迫り来る数十体の鏡像を、正面からまとめて吹き飛ばした。
轟ッ!
一方、レインは獰猛に笑いながら箱から二本の大型機械重槌を引き抜いた。
両腕の機械義肢を完全展開する。
「本物だろうが偽物だろうが、知ったこっちゃねえ!」
「俺の物理的な解体作業の前じゃ――」
レインが両手の重槌を振り抜いた。
「まとめてガラス屑にしてやるよ!」
ドン!
ドガァン!
二本の重槌が風を切るたび、宴会場全体に凄まじい因果の衝撃波が巻き起こる。
鏡像の殺戮機械が、次々と粉々に砕け散っていった。
だが――
この世界の異常さは、そこからだった。
一枚の鏡が砕ける。
すると、その周囲からさらに多くの、しかも先ほどよりも精巧な鏡像が生まれてくる。
まるで第108号支流そのものに存在する「偽りの物語」が、絶え間なく彼らへ力を供給しているかのようだった。
車両の中で拘束されたままのカルは、冷ややかにその様子を眺めていた。
そして、嘲るように言う。
「無駄だ!」
「鏡の世界の物語論理は閉じた循環構造になっている!」
「お前たちが攻撃すればするほど、偽りの債務が生まれる!」
「最後には、自分たち自身が作り出した幻の中から出られなくなるだけだ!」
「黙ってろよ、鉄面の帳場」
林野はその場から一歩も動かなかった。
周囲を埋め尽くす鏡面殺戮機械にも、目を向けようとしない。
ただ――
ゆっくりと目を閉じた。
その脳裏に浮かんだのは。
第七街区の、人々の暮らしの息吹。
北境廃墟を吹き抜ける冷たい風。
第77号支流を覆っていたネオンの雨。
そして――
自分の手にある分厚い帳簿に、一つひとつ記録された、本物の取引。
それらすべてが絡み合い、ひとつの純粋で重い「生活の尺度」へと変わっていく。
真実は、真実。
偽物は、偽物。
浮世書斎が商売をするために必要なのは、誰かが勝手に作り上げた壮大な物語などではない。
人の世にある、もっと小さく、もっと確かなもの。
油。
塩。
醤油。
米。
そして――
人と人との間に交わされた、ひとつひとつの因果と契約だった。
「偽りの帳簿は――」
林野が、突然目を開いた。
その瞳の奥に、一切の虚妄を貫く鋭い光が走る。
「どこまでいっても、偽りなんだよ」
次の瞬間。
林野は腰の無刃聖剣を、一気に抜き放った。
体内の市井の因果と、北境総館の契約鍵が瞬時に共鳴する。
金色の光が爆発した。
林野の身体そのものが、闇を切り裂く一筋の光となる。
そして――
高くそびえるクリスタルの玉座へ向かって、真正面から突っ込んでいった!
「よく見ろ!」
「――その帳簿をな!」
林野は両手で無刃聖剣を握りしめる。
黄金の笑顔の仮面の男の顔面へ狙いを定め――
そのまま、凄まじい勢いで斬り下ろした!
轟――!!!
その一撃には、派手な術式もなければ、華麗な魔法もなかった。
ただそこにあったのは――
強引に帳尻を合わせる力。
偽りの物語を真正面から叩き壊す、凄まじい轟音だけだった。
無刃聖剣の刃が、黄金の笑顔の仮面へ触れた瞬間。
編劇会本部の核心財政庫へ接続していると謳われた黄金の仮面が――
まるで粗悪な紙細工の仮面であるかのように、絶望した悲鳴を上げた。
そして――
中央から、大きな亀裂が走った。
カキン!
カキッ、カキカキッ――!
亀裂は一気に広がっていく。
クリスタルの玉座を中心として、第108号支流の「鏡の宮殿」そのものが、大規模にひび割れ始めた。
やがて――
バキィィン!!!
無数の記憶の鏡が、次々と砕け散っていく。
そこに映し出されていた偽りの歴史もまた、同時に崩壊した。
そして鏡の向こうから姿を現したのは――
華やかな宴会場でもなければ、壮大な歴史世界でもなかった。
そこにあったのは、荒れ果てながらも確かに存在している、現実の多次元支流だった。
黄金の笑顔の仮面が、完全に剥がれ落ちる。
その下から現れたのは、青白く怯えた機械の顔だった。
男は林野の手にある剣を凝視する。
声が震えていた。
「お……お前はいったい何者なんだ……?」
「なぜだ……なぜ至高編劇会による物語の改竄が、お前の因果網には干渉できない!?」
林野は王座の前へ静かに着地した。
そして、反対の手で無刃聖剣を鞘へ戻す。
カチン。
林野は相手を見下ろした。
その顔には――
いつもの、どこか人を食ったような笑みが浮かんでいる。
「名乗るほどでもねえ」
林野は肩をすくめた。
「浮世書斎の店主――林野だ」
そして、指を一本立てる。
「覚えとけ」
「次に俺の前で、そんな中身のねえ偽りの帳簿を並べてみろ」
林野は笑った。
「そのときは――」
「お前らの本拠地ごと、正式に差し押さえてやるよ」




