第四十二章 鏡の世界の偽りの帳簿
轟隆――!
「終焉号」因果専列車が、至高編劇会の料金所の残骸を踏み砕きながら突き抜けていく。
そのまま一本の止めどない金色の光となり、第108号支流を覆う波打つ時空の壁を、真正面から突き破った。
浮遊感が続いたのは、ほんの一呼吸にも満たなかった。
鋭い摩擦音とともに列車が停止した瞬間――
目の前に広がった光景を見て、いつでも戦えるよう身構えていたレインと墨清は、同時に眉を上げた。
荒れ果てた廃土ではない。
吹雪もない。
ましてや、想像していたような高次元の審判廷でもなかった。
三人の目の前に現れたのは――
豪華で、壮大で、それでいて至るところに不気味さを漂わせた、巨大な宴会場だった。
天井には数万ものクリスタルシャンデリアが吊り下げられ、広大な空間の隅々まで照らし出している。
無数の華麗な夜会服を身にまとい、精巧な仮面をつけた「客人」たちが、長く伸びた赤い絨毯の上で優雅に踊っていた。
空気を満たしているのは、優雅で、どこか人を酔わせるような古典交響曲。
まるで、どこにでもある華やかな社交界の一夜のようだった。
だが――
よく見れば、すぐに異変に気づく。
そこにいる「客人」たちには、誰一人として足がなかった。
腰から下は、そのまま無数の高次元コードへと変わっている。
しかも、彼らが楽しそうに交わしている会話の内容は――
何度も書き換えられ、捏造された、壮大な歴史物語の断片だった。
こここそが、第108号支流。
――「鏡中浮世ワルツ」。
「おいおい。さっきまで殺し合ってたと思ったら、今度は仮面舞踏会かよ?」
レインは箱の中からレンチを一本取り出した。
そして警戒しながら、周囲を見回す。
「林野。この場所の因果波動、確かにおかしいぞ」
レインは踊っている客人たちを指差した。
「周りの連中、全員が偽造された『架空資産』を丸ごと一枚かぶせられてやがる」
墨清は手にした断剣を、ほんの半寸だけ鞘から抜いた。
キィン――。
澄んだ剣鳴りが、宴会場に流れていた交響曲を一瞬だけ押し退けた。
「気をつけて」
墨清の目は、踊る客人たちを冷静に追っている。
「この空間は、無数の『記憶の鏡』が互いに反射することで作られている」
「私たちが見ている客人の一人ひとりが、編劇会がある一つの真実の歴史を覆い隠すために作った――」
「『偽りの身代わり』である可能性があるわ」
一方。
宴会場の隅に簀巻きにされ、転がされていたカルは、車窓越しに外の光景を眺めていた。
その口元には、いつの間にか冷たい笑みが浮かんでいる。
「林野。お前たちは罠にかかった」
カルは楽しそうに言った。
「ここは編劇会が入念に作り上げた『物語迷宮』だ」
「この支流では、真実が偽物で、偽物が真実になる」
「お前たちが持っている帳簿など、ここでは何の意味もない」
カルは笑う。
「この場所に存在する一つひとつの帳簿そのものが、最初から空中で捏造された幻だからな!」
「空中で捏造された幻?」
林野は、カルのほうを見ようともしなかった。
ゆっくりと懐から、あの分厚い帳簿を取り出す。
そして最新の頁を開いた。
本来なら債務が記録されるはずの白紙の頁。
そこに今――
奇妙な桃色の泡が、じわりと浮かび上がっていた。
そして、その泡の上に、次々と大げさで偽りに満ちた数字が自動的に刻まれていく。
【第108号請求書】
【本日の支流消費――】
【虚栄心:五百トン】
【嘘:二千籠】
【因果論理:マイナス三万点】
林野はそれを見て、思わず小さく笑った。
「おやおや」
「まだ帳尻も合わせてねえのに、こいつら、先に俺のための消費明細まで作ってくれたのか?」
林野は帳簿を閉じた。
ドン――。
重い音が、宴会場に響いた。
そのまま車両を降りる。
分厚い絨毯の敷かれた赤褐色の床へ、ゆっくりと足を踏み出した。
トン――。
その一歩が落ちた瞬間。
さっきまで優雅に踊っていた数十人の仮面の客人たちが――
一斉に動きを止めた。
数十対の空洞で冷たい瞳が、同時に林野へ向けられる。
宴会場に流れていた交響曲が、突然途切れた。
代わりに響き始めたのは、背筋を凍らせるような機械音だった。
ギギ……ギギギ……。
「ようこそ」
「ワルツの舞踏会へ――遠路はるばるやって来た『招かれざる客人』よ」
宴会場の中央。
巨大なクリスタルの玉座に座っていた人物が、ゆっくりと立ち上がった。
純白の燕尾服。
顔には、黄金色の笑顔を象った仮面。
その男は、血のように赤い酒の入ったグラスを片手に持っていた。
そして玉座の上から、林野を見下ろす。
「この鏡の世界では、すべての客人がこの場所の規則に従わなければならない」
その声が、広大な宴会場全体へと響き渡る。
「仮面をつけ、この壮大な物語の中に組み込まれた――偽りの楽章になるか」
男はそこで言葉を止めた。
黄金の笑顔が、わずかに歪む。
「それとも……」
周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。
「『不良債権』として、この場所の鏡に完全に溶かされるか」
「多次元宇宙のどこにも、骨の欠片ひとつ残らないようにな」
突然始まった、この露骨な罠。
だが林野は――
まるで興味がないかのように、まぶたひとつ動かさなかった。
反対の手で腰の無刃聖剣を握る。
帳簿を腰帯へ差し込む。
そして口元に、どこか人を食ったような鋭い笑みを浮かべた。
「仮面舞踏会?」
林野は黄金の笑顔の仮面を見た。
「俺が昔から一番嫌いなのはな――」
「見栄を張って、無理やり金持ちのふりをしてる貧乏人どもなんだよ」
林野は一歩、前へ出る。
「今日のワルツも――」
腰の帳簿を軽く叩く。
「もう請求書が切られてるってんなら、遠慮する理由はねえよな」
無刃聖剣の柄を握る。
そして、いつもの笑みを浮かべた。
「お前らのこの鏡の宮殿ごと――」
「舞踏場までまとめて、正式に差し押さえさせてもらうぜ!」




