第三十七章 不良債権の定義
轟――――ッ!!
無数の黄ばんだ羊皮紙の帳簿が宙を舞う。
ぐるぐると回転し、互いに絡み合いながら――
やがて、それは巨大な高次元の紙片嵐となった。
空間そのものを押し潰すような圧迫感。
普通の修士なら、魂ごと消し飛ばされてもおかしくないほどの怨念が、無数の紙片となって林野の顔面へ殺到する。
だが――
林野は、まばたき一つしなかった。
ただ、その場に立っている。
そして。
手にした分厚く古びた帳簿を、ゆっくりと開いた。
表紙には、今も第七街区の人の世の息吹が残っている。
肉まんの油染み。
豆腐屋から漂ってきた匂い。
誰かが乱雑に書き込んだ数字。
そんな、ごく普通の日常の痕跡。
林野の体内で、因果契約がわずかに動いた。
すると――
帳簿の奥から、柔らかく、それでいてずっしりと重い金色の光が灯った。
ヴン――。
次の瞬間。
林野を中心として――
質素で飾り気のない、市井の気配が無形の波となって広がった。
ドッ――。
襲いかかってきた紙片の嵐が、その光に触れた瞬間。
まるで泥牛が海へ飛び込んだかのように――
ぴたりと止まった。
宙に浮いた紙片。
一枚。
また一枚。
やがて、それらは力を失ったようにゆっくりと落下していく。
床へ触れた瞬間には――
ただの古びた紙切れになっていた。
黄ばんだ羊皮紙。
破れた契約書。
意味を失った請求書。
高次元の怨念など、もうどこにも残っていない。
黄銅製の机の向こう。
半透明の影が、ぴたりと固まった。
空洞だった光の瞳に――
激しい動揺が走る。
「ふ……」
「不良債権……?」
掠れた機械音声が震える。
「この……至高編劇会によって完全にフォーマットされた死寂の支流で……」
「どうして……」
「どうして、まだ『不良債権』などというものを認める者がいる……?」
影は林野の帳簿を凝視した。
「編劇会には……」
「相殺と抹消しか存在しない」
「不良債権など――」
「存在してはならない!」
「そりゃ――」
林野が笑った。
「お前らが商売のルールを知らないだけだろ」
帳簿を脇へ挟む。
そして、落ちた紙片を踏みながら――
大股で歩いていく。
黄銅製の巨大な机の前まで来ると、両手を机へついた。
そして、ほとんど崩壊しかけている残存意識を見下ろした。
「口では相殺だの、抹消だの言ってるくせに――」
「この支流の因果網は、もうぐちゃぐちゃじゃねえか」
林野は机の上に積まれた帳簿を見る。
「帳尻すら合ってない」
指で一冊の巨大な帳簿を叩く。
そこには無数の文字化け。
修正跡。
上書き。
抹消。
そして、意味を失った数字が並んでいた。
「こんな自分をごまかすだけのやり方――」
林野は鼻で笑う。
「編劇会本部の、キーボードを叩くことしかできない連中くらいしか騙せないだろ」
そして、人差し指で巨大な帳簿をコンコンと叩いた。
「さあ」
「俺に教えろ」
「何紀元もまたいで――」
「この機械墓場の法則そのものを崩壊させる原因になった、その腐った勘定」
林野の目が細くなる。
「いったい、最初の一筆は何だった?」
半透明の影は――
答えなかった。
ただ、林野を見つめている。
光の瞳が激しく明滅する。
やがて。
透明な手が、震えながら巨大な帳簿へ伸びた。
ページをめくる。
一枚。
二枚。
三枚。
そして――
最後の頁。
影が指を止めた。
そこには、無数の高次元暗号鎖が幾重にも絡みついている。
その中心。
真紅の座標が一つだけ、封印されていた。
「……これだ」
声は、ほとんど聞き取れないほど弱かった。
「『初期原稿』の……最初の残片……」
林野の表情が変わる。
墨清とレインも、黙って帳簿を見る。
影は続けた。
「当時……大粛清が起きた」
「北境総館は……核心情報を守るため……」
「それを、この支流へ密かに移した……」
「だが……」
光の瞳が震える。
「編劇会の首席裁決長は……証拠を完全に消そうとした」
「そして、この支流へ――」
「『絶対静止』の破壊コードを……強制注入した……」
墨清の表情がわずかに強張った。
レインも黙っている。
影は自分の手を見つめた。
「支流そのものが、その場で崩壊しないようにするため……」
「私は……」
「すべての因果予算を……」
「住民たちの記憶を……」
「都市のエネルギーさえも……」
「帳簿へ詰め込んだ……」
「少しでも……」
「少しでも長く、この世界を維持するために……」
声が震える。
そして――
ゆっくりと顔を上げた。
空洞の目。
その奥に残っていたのは、絶望だった。
「だが……」
「帳簿では……」
「支流一つの崩壊そのものを、均衡させることなどできない……」
「林店主……」
「これは……」
「不良債権なんかじゃない」
一瞬。
大広間が静まり返る。
「これは――」
「詰んでいるんだ」
その言葉を聞いて。
背後にいた墨清とレインの表情が、わずかに変わった。
二人もようやく理解した。
この支流が、こんな姿になった理由。
住民たちが家賃を払わなかったからではない。
この世界の住人が契約を拒絶したからでもない。
もっと単純で――
もっと残酷な理由だった。
至高編劇会が、この世界へ一つの「返済不能な破壊債務」を押しつけた。
そして、その債務を支流そのものへ背負わせた。
因果網が壊れた。
記憶が失われた。
都市が死んだ。
世界そのものが、帳簿の中へ少しずつ沈んでいった。
「……」
レインが拳を握る。
墨清も黙って帳簿を見つめている。
だが。
林野は――
重い顔をしなかった。
むしろ。
「ふっ」
小さく笑った。
そして、自分の胸元にある分厚い帳簿を――
ポンッ。
と叩いた。
「詰んでる?」
林野は腰を伸ばす。
「浮世書斎の辞書にはな――」
目に鋭い光が宿る。
「『詰み』なんて言葉は載ってない」
レインが眉を上げる。
林野は続けた。
「あるのは――」
「『まだ利息が十分に膨らんでない未払い』だけだ」
「……」
レインが呆れた顔をする。
墨清は小さく息を吐いた。
林野は二人へ振り返る。
その表情には、もう迷いがなかった。
「レイン」
「お前は――」
「解体装備を準備してくれ」
レインの口元が上がる。
「了解」
林野は次に墨清を見る。
「墨清」
「外周の因果ノードを頼む」
「一つでも崩れたら、この支流そのものが巻き込まれる」
墨清は頷いた。
「分かった」
林野は、再び目の前の巨大な帳簿へ視線を戻した。
そして――
無刃聖剣を抜く。
「至高編劇会が残したこの『破壊債務』が――」
「本当に詰みだっていうなら」
剣先が、真紅に封印された座標へ向く。
「今日、俺たちが――」
「浮世書斎のやり方で」
「無理やり組み直してやるよ」
中枢鉄塔の奥。
三紀元分の未払いと、世界そのものを押し潰していた巨大な債務が――
初めて。
「精算される側」として、帳簿へ記録された。




