↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浮世書斎と未亡の刃  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/56

第三十七章 不良債権の定義

轟――――ッ!!


無数の黄ばんだ羊皮紙の帳簿が宙を舞う。


ぐるぐると回転し、互いに絡み合いながら――


やがて、それは巨大な高次元の紙片嵐となった。


空間そのものを押し潰すような圧迫感。


普通の修士なら、魂ごと消し飛ばされてもおかしくないほどの怨念が、無数の紙片となって林野の顔面へ殺到する。


だが――


林野は、まばたき一つしなかった。


ただ、その場に立っている。


そして。


手にした分厚く古びた帳簿を、ゆっくりと開いた。


表紙には、今も第七街区の人の世の息吹が残っている。


肉まんの油染み。


豆腐屋から漂ってきた匂い。


誰かが乱雑に書き込んだ数字。


そんな、ごく普通の日常の痕跡。


林野の体内で、因果契約がわずかに動いた。


すると――


帳簿の奥から、柔らかく、それでいてずっしりと重い金色の光が灯った。


ヴン――。


次の瞬間。


林野を中心として――


質素で飾り気のない、市井の気配が無形の波となって広がった。


ドッ――。


襲いかかってきた紙片の嵐が、その光に触れた瞬間。


まるで泥牛が海へ飛び込んだかのように――


ぴたりと止まった。


宙に浮いた紙片。


一枚。


また一枚。


やがて、それらは力を失ったようにゆっくりと落下していく。


床へ触れた瞬間には――


ただの古びた紙切れになっていた。


黄ばんだ羊皮紙。


破れた契約書。


意味を失った請求書。


高次元の怨念など、もうどこにも残っていない。


黄銅製の机の向こう。


半透明の影が、ぴたりと固まった。


空洞だった光の瞳に――


激しい動揺が走る。


「ふ……」


「不良債権……?」


掠れた機械音声が震える。


「この……至高編劇会によって完全にフォーマットされた死寂の支流で……」


「どうして……」


「どうして、まだ『不良債権』などというものを認める者がいる……?」


影は林野の帳簿を凝視した。


「編劇会には……」


「相殺と抹消しか存在しない」


「不良債権など――」


「存在してはならない!」


「そりゃ――」


林野が笑った。


「お前らが商売のルールを知らないだけだろ」


帳簿を脇へ挟む。


そして、落ちた紙片を踏みながら――


大股で歩いていく。


黄銅製の巨大な机の前まで来ると、両手を机へついた。


そして、ほとんど崩壊しかけている残存意識を見下ろした。


「口では相殺だの、抹消だの言ってるくせに――」


「この支流の因果網は、もうぐちゃぐちゃじゃねえか」


林野は机の上に積まれた帳簿を見る。


「帳尻すら合ってない」


指で一冊の巨大な帳簿を叩く。


そこには無数の文字化け。


修正跡。


上書き。


抹消。


そして、意味を失った数字が並んでいた。


「こんな自分をごまかすだけのやり方――」


林野は鼻で笑う。


「編劇会本部の、キーボードを叩くことしかできない連中くらいしか騙せないだろ」


そして、人差し指で巨大な帳簿をコンコンと叩いた。


「さあ」


「俺に教えろ」


「何紀元もまたいで――」


「この機械墓場の法則そのものを崩壊させる原因になった、その腐った勘定」


林野の目が細くなる。


「いったい、最初の一筆は何だった?」


半透明の影は――


答えなかった。


ただ、林野を見つめている。


光の瞳が激しく明滅する。


やがて。


透明な手が、震えながら巨大な帳簿へ伸びた。


ページをめくる。


一枚。


二枚。


三枚。


そして――


最後の頁。


影が指を止めた。


そこには、無数の高次元暗号鎖が幾重にも絡みついている。


その中心。


真紅の座標が一つだけ、封印されていた。


「……これだ」


声は、ほとんど聞き取れないほど弱かった。


「『初期原稿』の……最初の残片……」


林野の表情が変わる。


墨清とレインも、黙って帳簿を見る。


影は続けた。


「当時……大粛清が起きた」


「北境総館は……核心情報を守るため……」


「それを、この支流へ密かに移した……」


「だが……」


光の瞳が震える。


「編劇会の首席裁決長は……証拠を完全に消そうとした」


「そして、この支流へ――」


「『絶対静止』の破壊コードを……強制注入した……」


墨清の表情がわずかに強張った。


レインも黙っている。


影は自分の手を見つめた。


「支流そのものが、その場で崩壊しないようにするため……」


「私は……」


「すべての因果予算を……」


「住民たちの記憶を……」


「都市のエネルギーさえも……」


「帳簿へ詰め込んだ……」


「少しでも……」


「少しでも長く、この世界を維持するために……」


声が震える。


そして――


ゆっくりと顔を上げた。


空洞の目。


その奥に残っていたのは、絶望だった。


「だが……」


「帳簿では……」


「支流一つの崩壊そのものを、均衡させることなどできない……」


「林店主……」


「これは……」


「不良債権なんかじゃない」


一瞬。


大広間が静まり返る。


「これは――」


「詰んでいるんだ」


その言葉を聞いて。


背後にいた墨清とレインの表情が、わずかに変わった。


二人もようやく理解した。


この支流が、こんな姿になった理由。


住民たちが家賃を払わなかったからではない。


この世界の住人が契約を拒絶したからでもない。


もっと単純で――


もっと残酷な理由だった。


至高編劇会が、この世界へ一つの「返済不能な破壊債務」を押しつけた。


そして、その債務を支流そのものへ背負わせた。


因果網が壊れた。


記憶が失われた。


都市が死んだ。


世界そのものが、帳簿の中へ少しずつ沈んでいった。


「……」


レインが拳を握る。


墨清も黙って帳簿を見つめている。


だが。


林野は――


重い顔をしなかった。


むしろ。


「ふっ」


小さく笑った。


そして、自分の胸元にある分厚い帳簿を――


ポンッ。


と叩いた。


「詰んでる?」


林野は腰を伸ばす。


「浮世書斎の辞書にはな――」


目に鋭い光が宿る。


「『詰み』なんて言葉は載ってない」


レインが眉を上げる。


林野は続けた。


「あるのは――」


「『まだ利息が十分に膨らんでない未払い』だけだ」


「……」


レインが呆れた顔をする。


墨清は小さく息を吐いた。


林野は二人へ振り返る。


その表情には、もう迷いがなかった。


「レイン」


「お前は――」


「解体装備を準備してくれ」


レインの口元が上がる。


「了解」


林野は次に墨清を見る。


「墨清」


「外周の因果ノードを頼む」


「一つでも崩れたら、この支流そのものが巻き込まれる」


墨清は頷いた。


「分かった」


林野は、再び目の前の巨大な帳簿へ視線を戻した。


そして――


無刃聖剣を抜く。


「至高編劇会が残したこの『破壊債務』が――」


「本当に詰みだっていうなら」


剣先が、真紅に封印された座標へ向く。


「今日、俺たちが――」


「浮世書斎のやり方で」


「無理やり組み直してやるよ」


中枢鉄塔の奥。


三紀元分の未払いと、世界そのものを押し潰していた巨大な債務が――


初めて。


「精算される側」として、帳簿へ記録された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。