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浮世書斎と未亡の刃  作者: 亀


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第三十六章 中枢鉄塔の「総勘定帳」

林野の一撃による「物理的説得」を受けた機械統領が沈黙すると、廃土都市の街路に残っていた暴動機械たちは、完全に戦意を失った。


やがて――


ジジジ……。


あちらこちらから煙を上げながら、ただの鉄くずとなっていく。


ネオン色の雨は、相変わらず冷たい大地へ降り注いでいた。


その雨が街全体を洗い流していく。


だが、洗い流された先に残っているのは――


静寂だけだった。


「よし」


林野は無刃聖剣を収める。


そして帳簿の表紙に付着した雨水を、手の甲で軽く払った。


顔を上げる。


視線の先。


廃土都市の中央には、雲を突き抜けるほど巨大な鉄塔がそびえ立っていた。


無数の破損した光ケーブルが、その塔全体へ蛇のように絡みついている。


林野はその姿を見上げた。


「邪魔な雑魚は片付いた」


「次は――」


帳簿を脇に抱える。


「この廃棄支流の、本当の『大大家』に会いに行こうぜ」


レインは機械義肢の関節を動かしながら、足元に落ちていた点滅中の回路基板を蹴り飛ばした。


「できれば、さっきの鉄くずより話の分かる大家だといいんだけどな」


口元を歪めて笑う。


「そうじゃなかったら――」


背負っている鉄箱を軽く叩く。


「この中に積んである重装解体工具が、ようやく出番ってことになる」


墨清は何も答えなかった。


ただ、手にした断剣からは、いつでも抜けるような澄んだ剣鳴りが響いている。


彼女はすでに気づいていた。


中枢鉄塔へ近づくほど――


周囲の空間に存在する因果法則が、明らかにおかしくなっている。


空間そのものが歪んでいるわけではない。


もっと根本的なところ。


「この世界が、何を基準に存在しているのか」。


その基準そのものが、崩れかけている。


そして、その奥から――


かつての至高編劇会が残したものと思われる、異様な高次元の威圧感が漂っていた。


「……気をつけて」


墨清が短く言った。


「この先は、さっきまでとは違う」


林野は前を向いたまま答える。


「分かってる」


「だから、家賃も高そうだ」


「……」


墨清は一瞬だけ黙った。


レインが吹き出す。


「お前、どこまで行ってもそれだな」


「当たり前だろ」


林野は歩きながら答えた。


「土地が広いほど、家賃は高い」


三人は、廃棄された高架橋を進んでいった。


やがて――


巨大な合金製の門が見えてくる。


中枢鉄塔。


その正門だった。


門の隙間からは、濃密なデータストリームが絶えず漏れ出している。


古びたデータ。


その内部には、淡い金色の光が混じっていた。


ゴウ……。


まるで、何千年ものあいだ誰にも触れられなかった記憶が、呼吸しているようだった。


林野は門の前で立ち止まる。


レインが言う。


「どうする?」


「ノックでもするか?」


林野は門を見た。


そして――


首を横に振った。


「いや」


「面倒だ」


右足を上げる。


「こういう時は――」


「直接聞いたほうが早い」


ドゴォォン!!


凄まじい蹴りが、合金製の巨大な門へ叩き込まれた。


ギギギギギ――!!


金属そのものが悲鳴を上げる。


次の瞬間。


重い門が、内側へ向かって轟音とともに吹き飛んだ。


「……お前、本当に大家か?」


レインが呆れた声を出す。


林野は何事もなかったように歩き出した。


「ちゃんと家賃を取りに来た大家だよ」


「礼儀は後でいい」


三人は中へ入った。


そして――


足を止める。


「……え?」


レインが声を漏らした。


中枢鉄塔の内部。


そこにあったのは、彼らが想像していた冷たい機械サーバーの山ではなかった。


むしろ――


巨大な中世の図書館。


それを無理やり鉄塔の内部へ押し込んだような空間だった。


無数の黄ばんだ羊皮紙の帳簿。


高次元データ結晶。


古びた契約書。


そして、何世代もの計算記録。


それらが山のように積み上げられている。


そして、その最奥。


巨大な黄銅製の机の前に――


一つの半透明な人影が座っていた。


無数の壊れた光が絡み合って、人の形を保っている。


姿だけを見れば――


ひどく疲れた老帳場のようだった。


その手には、一本の光子製羽ペン。


だが、その光はもうほとんど消えかけている。


それでも老人のような影は、その羽ペンを必死に握りしめていた。


そして――


一冊の巨大な帳簿へ、何かを書き続けている。


ガリ……。


ガリ……。


「……」


三人が入ってきても、気づいていない。


ただひたすら。


数字を。


契約を。


滞納記録を。


何かを必死に書き続けている。


だが――


林野が蹴り飛ばした門の音が、ようやく届いた。


影が、ビクッと震える。


そして――


ゆっくりと顔を上げた。


空洞のような目。


それでも、その奥には異様な執念だけが残っている。


光でできた瞳が、林野をまっすぐ見つめた。


「違う……」


「全部、違う……」


「帳尻が……合わない……」


掠れた声。


焦っている。


それどころか、ほとんど狂気に近い。


「滞納金が……三紀元を超えた……」


「底層コードに欠損が発生している……」


「このままでは……」


老人のような影が、震える手で帳簿を抱きしめる。


「至高編劇会が……」


「我々を精算しに来る……!」


「誰も……」


「誰も、私の帳簿に触るな!!」


轟ッ!!


叫び声と同時に――


大広間の周囲に積み上げられていた無数の帳簿が、一斉に宙へ浮かび上がった。


バサバサバサバサッ!!


数千。


いや、数万。


それ以上の紙片が、巨大な嵐となって舞い上がる。


羊皮紙。


契約書。


滞納記録。


古い請求書。


そして――


それらに染みついた、高次元の怨念。


すべてが渦を巻きながら、林野たちへ襲いかかってきた。


「林野!」


墨清が断剣へ手をかける。


レインも機械義肢を起動させた。


だが――


林野が片手を上げる。


「いい」


二人を止める。


林野は、目の前で錯乱している残存意識を静かに見つめた。


逃げない。


怒りもしない。


ただ――


小さく息を吐いた。


そして腰の帳簿を、ゆっくりと手に取る。


一歩。


前へ出る。


紙片の嵐が頬を切る。


それでも林野は止まらない。


そして、静かな声で言った。


「もう、計算するな」


「お前のそのボロい帳簿は――」


「あと一万年計算したって、編劇会のあいつらが来たって、永遠に合わねえよ」


老帳場のような影が、ゆっくりと顔を上げる。


林野は自分の帳簿を軽く振った。


そして――


笑った。


「だってな」


「浮世書斎のルールじゃ――」


「死んだ勘定は、欠損じゃない」


帳簿を開く。


「『不良債権』って呼ぶんだ」


一頁。


また一頁。


林野は淡々と帳簿をめくっていく。


「そして、今日ここへ来た理由は一つ」


「お前らが何千年かけても合わせられなかったその勘定を――」


林野は目の前の残存意識を、まっすぐ見つめた。


「最初から最後まで、もう一度ちゃんと精算してやるためだ」


広大な中枢鉄塔の内部で――


無数の帳簿が、初めて動きを止めた。


そして。


古びた総勘定帳の奥で――


何かが、ゆっくりと目を覚まし始めた。

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