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浮世書斎と未亡の刃  作者: 亀


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第三十一章 時空を越えた帳尻合わせ

轟――!


林野の蹴りが落ちた瞬間。


北境総館の重厚な古い銅門が、まるで幾つもの紀元を越えて響き渡るかのような、低く長い轟音を響かせた。


そして――


内側へ向かって、大きく開いた。


だが。


予想していたような罠はなかった。


高次元エネルギーによる猛烈な反撃もない。


ただ、濃厚な墨の香りと、古びた書物特有の乾いた匂いが、門の向こうから一気に流れ出してきた。


それだけではない。


そこには、炭火のような温かい、人の世の息吹まで混じっていた。


その温もりは、不思議なほどあっさりと、門の外に広がっていた凍てつく氷原の寒気を遮断してしまった。


林野は無刃聖剣を肩へ担ぎ直し、そのまま大股で敷居をまたぐ。


墨清とレインが左右から続く。


そして、拘束を一部解除されたカールが、最後尾から不機嫌そうな顔でついてきた。


どうにかして、この伝説の「北境総館」から逆転の手掛かりを探そうとしているらしい。


長く、広い廊下を進む。


そして――


全員が、わずかに足を止めた。


目の前に広がっていた光景は、想像していたものとはまるで違った。


ここは、冷たい廃墟の資料庫などではなかった。


むしろ――


途方もなく巨大な、どこか人の暮らしを感じさせる古びた書店だった。


高い天井からは、無数の因果晶灯が吊り下げられている。


その灯りは、柔らかな金色を放っていた。


左右には、どこまでも続いているように見える巨大な黄銅製の書架。


そこには――


何億冊もの古書。


契約書。


帳簿。


記録。


そして、名前すら失われた歴史の断片が、ぎっしりと並べられていた。


その中央。


巨大な赤木のカウンターの向こうに、一人の老人が座っていた。


色褪せた長衫。


手には、使い込まれた茶缶。


老人は足音を聞くと、ゆっくりと茶缶を口元へ運び、茶葉をふうっと吹いた。


顔すら上げない。


そして、しゃがれた声が広大な店内に響いた。


「おやおや」


「今年は、この氷原も随分と早く冷え込んだもんだな」


「新入りの小店主さんよ」


「門の外にいた編劇会の馬鹿どもに、追い返されなかったようで何よりだ」


林野は眉を上げた。


そしてカウンターの前まで歩いていく。


腕を組み、老人を上から下まで眺めた。


老人の身にまとっている因果の波動は、ひどく奇妙だった。


一見すれば、確かに生きた人間に見える。


だが、意識を集中させてみると――


その存在は、無数の歴史の残頁と契約規則を無理やり組み合わせて作られた、巨大なデータ投影のようにも感じられた。


「じいさん」


林野は口元を歪める。


「ずいぶん偉そうだな」


そして、自分の分厚い帳簿をカウンターの上へ――


ドンッ!


と置いた。


「入ってすぐ気づいたんだけどな」


「この店の看板、『浮世書斎・北境総館』って書いてあるじゃないか」


「だったら、俺たちは同業者だろ?」


林野は帳簿を指先で叩いた。


「同じように店を構えて、家賃を取ってる仲間ってことだ」


「だったら――」


「まずは帳尻を合わせようぜ」


「俺が北境を引き継ぐ前から、ここに何百年も積み上がってる違約金と滞納金……」


「いったいいつになったら払うつもりなんだ?」


カウンターの向こうの老人が、ようやく茶缶を置いた。


ゆっくりと顔を上げる。


そこには、長い年月を刻み込んだ皺が刻まれていた。


特にその目。


まるで、多次元世界そのものの生と死、そして無数の盛衰を映し出しているようだった。


老人は林野を見た。


それから、カウンターの上に置かれた帳簿を見る。


そして――


怒るどころか、大声で笑い始めた。


「ははははは!」


「後生畏るべし! 後生畏るべし、とはまさにこのことか!」


「この場所で何百年も待っていたが――」


「編劇会のフォーマットプログラムが来ると思っていたら、まさか俺以上に図々しい『徴収の同業者』が来るとはな!」


老人は笑いながら、痩せた指で赤木のカウンターを軽く叩いた。


コン――。


次の瞬間。


「うおっ……!」


「な、なんだ!?」


周囲の巨大な書架が、一斉に激しく震え始めた。


ガラガラガラ――!


数え切れないほどの古い帳簿。


破れた契約書。


黄ばんだ記録。


そして、すでに誰にも読めなくなっていた古代の文書。


それらが一斉に空中へ舞い上がる。


無数の紙片が、空中で複雑に絡み合っていく。


やがて――


それは天井すら覆い尽くす、巨大な光の幕へと変わった。


そこに映し出されたのは――


第一部の修仙世界から、現在の北境廃墟に至るまでの歴史。


至高編劇会によって強制的に抹消されたもの。


それでも浮世書斎によって、最後まで回収され、保管され続けたもの。


そのすべてが――


一つの「究極の負債」として記録されていた。


老人の笑みが消える。


深い眼差しが、林野をまっすぐ射抜いた。


「小店主」


「お前は、北境の『初期原稿』が何なのか……本当に分かっているのか?」


林野は黙って光幕を見上げた。


老人は続ける。


「それはな――」


「多次元宇宙の因果網が破産する、その直前に書き残された――」


「最後の『破産清算書』だ」


空気が変わった。


レインが息を呑む。


墨清も、無言のまま光幕を見つめる。


カールだけは――


顔を強張らせていた。


老人は林野から視線を逸らさない。


「小店主」


「この帳簿を引き継ぐということは――」


「多次元世界そのものの底層秩序と、完全に敵対することになるかもしれん」


「それだけではない」


老人は少しだけ身を乗り出した。


「お前自身の『生活の尺度』すら、この終わりのない未払いの帳尻争いに巻き込まれることになる」


「それでも――」


老人の目が鋭く光る。


「この商売を引き受ける価値があると思うか?」


大広間が静まり返った。


遠くで因果晶灯が、かすかに揺れる音だけが聞こえる。


いつもなら大雑把に笑っているレインですら、息を止めていた。


墨清の断剣を握る指にも、わずかに力が入る。


だが――


林野には、一秒たりとも迷いがなかった。


林野は鼻で笑う。


無刃聖剣を腰へ戻す。


そして自分の帳簿を片手で掴み上げると、真正面から老人の目を見据えた。


声は静かだった。


だが、その言葉には――


一歩も引くつもりのない、店主としての頑固さが滲んでいた。


「帳尻を合わせるなら、合わせる」


「いちいち、そんなに難しく考えるなよ」


林野は帳簿を肩に担ぐ。


「俺の浮世書斎が、まだ客を迎えるために門を開けてる限り――」


「この世に、俺――林店主が取り立てられない家賃なんて、存在しないんだよ」

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