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浮世書斎と未亡の刃  作者: 亀


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第三十二章 鍵と引き継ぎ

赤木のカウンターの向こうで――


自らを「初代大店主」と名乗った老人は、静かに林野を見つめていた。


大広間に浮かんでいる何億冊もの古い帳簿が、この瞬間、一斉に頁をめくる。


パラパラパラ――。


その音はまるで、多次元宇宙そのものの歴史が、この若い店主の答えを待っているかのようだった。


数秒間。


誰も口を開かなかった。


やがて――


老人の張り詰めていた表情が、ふっと緩んだ。


そして。


「はははははは!」


雷鳴のような大笑いが、大広間いっぱいに響き渡った。


「いい!」


「いいじゃないか!」


「『取り立てられない家賃など存在しない』とは――!」


老人は笑いながら腰を伸ばした。


枯れた指を、赤木のカウンターへ力強く叩きつける。


「俺がこの北境総館を開いた頃なんぞな――」


「編劇会の連中は毎日のようにやって来て、『永久抹消してやる』だの何だのと脅してきたものだ」


「だが――」


老人の目に、かつてないほど鋭い光が宿る。


「今日からお前の手に渡るんだ」


「なら、あいつらがこの古い勘定を、いったい何を使って清算するつもりなのか――」


「俺も見届けてやろうじゃないか!」


その笑い声が響く中。


カウンターの上に置かれていた因果晶灯が――


突然、消えた。


ふっ――。


何百年、何千年もの間、燃え続けていたはずの光が、一瞬で闇へ沈む。


次の瞬間。


カウンターの下にある隠し棚が、ゆっくりと開いた。


その奥から――


一つの巨大な古い鍵が浮かび上がってくる。


それは普通の鍵ではなかった。


圧縮された無数の契約書の頁が複雑に絡み合い、一つの重厚な鍵を形作っている。


古びている。


だが、その存在そのものが異様なほど重い。


鍵は空中をゆっくりと移動し――


林野の手のひらへ、静かに落ちた。


ずしり。


「……重っ」


思わず林野が呟いた。


だが次の瞬間。


冷たい感触が指先から全身へ駆け抜ける。


林野の頭の中で――


轟ッ!


無数の巨大な因果支流が、一気に展開した。


北境廃墟。


初期書庫。


多次元世界。


そして、そのさらに先。


未来へ延びる無数の世界支流。


それらすべてを繋いでいる、底層の「総勘定網」。


林野は一瞬、息を止めた。


その規模は、これまで彼が見てきたどんな因果網よりも巨大だった。


「チリン――」


同時に。


林野の腰に下げられていた、ずっと持ち歩いていた分厚い帳簿が――


誰の手も触れていないのに、自ら頁を開いた。


一枚。


また一枚。


そして最後に――


北境総館の巨大なシステムと、完全に接続する。


金色の文字列が帳簿の頁を走った。


林野の帳簿と、北境総館。


二つの「帳簿」が――


強制的に一つへ統合された。


その光景を見ていたカールの顔から、完全に血の気が引いた。


「こ……こんなこと……」


「あり得ない……!」


膝がわずかに震える。


「北境総館の因果鍵は、編劇会最高機密だぞ!」


「それを……」


「そんな簡単な方法で直接引き継ぐだと!?」


林野は鍵を見下ろした。


それから、何でもないように懐へ突っ込む。


そしてカールを見ると――


露骨に呆れた顔をした。


「簡単?」


「何言ってんだよ」


「これは正式な、合法的な所有権移転だろ」


「契約に従って鍵を受け取っただけだ」


林野は肩をすくめる。


「契約精神って言葉、知らないのか?」


「いちいち大騒ぎするなよ」


「…………」


カールは言葉を失った。


その横で、老人が袖を軽く振る。


すると、その身体が――


まるで青い煙のように、少しずつ透明になり始めた。


老人は林野を見る。


その目には、わずかな安堵と――


ようやく役目を終えた者だけが見せる、静かな解放感が浮かんでいた。


「小店主」


「北境総館の鍵は、お前に渡した」


「今日から――」


「お前が、この北境廃墟の正式な新しい大家だ」


林野は黙って聞いていた。


だが、老人はそこで一度言葉を止める。


そして――


視線を林野から外した。


墨清。


そして、レイン。


二人へ向ける。


声の調子が、少しだけ重くなった。


「ただし……」


「『初期原稿』のもう半分は、ここにはない」


墨清の表情が変わる。


レインも黙って老人を見る。


「かつて大粛清が行われたとき――」


「編劇会の最高裁決長が、初期原稿を強制的に二つへ引き裂いた」


「その片方は、この総館に残された」


「だが、もう片方は――」


老人は、林野の背後へ続いている巨大な因果網を見つめた。


「異なる平行世界の支流へ、それぞれ隠された」


「つまり――」


「北境の帳簿を、本当の意味で最後まで清算したいのなら……」


老人は静かに林野へ告げる。


「いつか、お前はここを出なければならん」


「多次元宇宙のあちこちに散らばった――」


「何冊もの『死んだ帳簿』を、全部取り戻すためにな」


「……なるほどな」


林野が小さく呟いた。


だが、その声に怯えはなかった。


むしろ――


少しだけ、面白そうな響きが混じっていた。


「やっぱり、家賃取りってのは楽じゃないな」


老人は笑った。


「そういうことだ」


その瞬間。


老人の姿が完全に透明になる。


そして――


無数の金色の粒へと変わった。


金色の光は、温かな炭火の香りの中へ溶け込むように消えていく。


最後まで、その笑い声だけが残った。


「後生畏るべし――」


やがて、それすら消えた。


静寂。


その直後だった。


ゴォン――!


北境総館全体が、大きく震えた。


古びていた黄銅の書架が、次々と新しい光を放ち始める。


無数の金色の因果線が、四方八方から総館へ流れ込んでくる。


そして――


林野の足元へ集まった。


一本。


また一本。


無数の帳簿と契約から生まれた因果線が、やがて一本の新しい軌道を形作る。


その軌道は――


総館のさらに奥へと続いていた。


レインはその光景を見つめ、深く息を吐いた。


「いや……」


「これ、家賃を取りに来たってレベルじゃないだろ」


レインは苦笑する。


「大家の先祖代々の財産を、そのまま全部引き継いだみたいな話じゃねえか」


墨清は断剣を収めた。


そして、未知の深部へ伸びる因果軌道を見つめる。


その表情は、いつになく険しい。


「初期原稿が、異なる世界支流へ分割されたということは――」


「編劇会本部が次に送り込んでくるものは……」


墨清は一度言葉を切った。


「もう、徴収官だけでは済まないでしょうね」


林野は手についた灰を軽く払った。


そして振り返る。


無刃聖剣を腰へ戻す。


顔には――


いつもの、あの明るい笑みが浮かんでいた。


林野は一歩前へ出る。


その足が、無数の帳簿によって編み上げられた因果軌道の上へ乗った。


金色の光が、足元から広がっていく。


林野は振り返った。


そして、仲間たちへ大きく手を振る。


「後ろがどんな龍潭虎穴だろうが、知ったことか!」


「帳簿が俺たちの手にある限り――」


「多次元宇宙が俺たちに滞納してる家賃も、利息も――」


林野は笑った。


「一銭たりとも、逃がさねえぞ!」


因果軌道の先。


そこには、まだ誰も知らない世界が待っていた。

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