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浮世書斎と未亡の刃  作者: 亀


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第三十章 初期書庫の「古参の客人」

轟々――!


北境氷原の奥から響いていた鼓動が、次第にその間隔を縮めていく。


一度、また一度。


大地が震えるたび、足元の凍土が限界まで軋み、今にも崩れ落ちそうな呻き声を上げた。


空中に浮かぶ「初期原稿」の残巻もまた、無数の金色の光糸を絡ませながら、さらに大きく膨張していく。


やがて、鉛色だった空全体が――


まるで古びた羊皮紙のような、古代を思わせる淡い黄褐色に染まっていった。


無刃聖剣を突きつけられていたカールは、その鼓動を聞いた瞬間、顔から血の気を失った。


首筋に剣を当てられている屈辱など、もはやどうでもよかった。


ただ、信じられないものを見るように、震える声で呟く。


「この音……」


「あり得ない……!」


「『初期原稿』は、数百年前の大粛清で、核心システムによって完全に粉砕されたはずだ……」


「なのに……なぜ、まだ……鼓動している……?」


林野はカールの首元から剣を引いた。


そして、何事もなかったかのように無刃聖剣を肩へ担ぐ。


視線だけを、因果の光糸が伸びていく先へ向けた。


目を細める。


吹雪のさらに奥。


そこに――


巨大な地下建造群があった。


それは、いったい何年、何百年、あるいは何千年もの間、氷の下に眠っていたのか。


大地そのものが震えるたび、巨大な構造物がゆっくりと氷を押し退けながら、地上へ姿を現していく。


だが、それは冷たい高次元機械の裁判所ではなかった。


無数の巨大な書架。


幾重にも連なる書類棚。


巨大な記録保管庫。


それらが複雑に組み合わさった――


古く、壮大な「超巨大図書館」だった。


そして、その正門の上。


無数の氷柱に覆われた巨大な真鍮製の看板が、ゆっくりと姿を現す。


そこには、古びた文字が刻まれていた。


【浮世書斎・北境総館】


「…………」


林野が固まった。


墨清も。


レインも。


三人とも、しばらく何も言わなかった。


やがてレインが目を擦る。


「……北境総館?」


その顔には、明らかな困惑が浮かんでいた。


「待てよ……」


「ここ、どうしてお前の『浮世書斎』と同じ名前なんだ?」


「まさか数百年前から、ここでも同じような書斎をやってた奴がいたっていうのか?」


墨清はすぐに、頁守りから受け取った古びた契約書を開いた。


破れた頁を一枚ずつ確認する。


眉間には、深い皺が寄っていた。


「……契約書に残された底層因果記録によれば」


「ここは単なる北境の原稿保管所ではないわ」


墨清は顔を上げる。


「かつて浮世書斎が、多次元の因果支流に設置した――」


「最初の『総勘定場』だったみたい」


林野の眉がぴくりと動いた。


「総勘定場?」


「つまり……」


墨清は静かに頷く。


「林野」


「あなたは、ここで家賃を取った最初の人間じゃない」


林野の口元が、ゆっくりと吊り上がった。


「へえ……」


彼は振り返る。


まだ黒曜石の椅子に座ったままのカールへ近づき、剣の柄でその肩を軽く突いた。


「なあ、鉄面の帳場」


「お前ら編劇会が、こんな北境を必死になって封鎖して――」


「挙げ句の果てには、大粛清なんて大げさなことまでやった理由って……」


林野は看板を指差した。


「ひょっとして、秘密を隠すためじゃなかったのか?」


そして、にやりと笑う。


「お前らがずっと追い出せなかった――」


「『古参の客人』が、ここに住み着いてたからじゃないのか?」


カールの表情が強張った。


歯を食いしばる。


その目の奥に、はっきりとした警戒と恐れが浮かんだ。


「それは……」


「『初代大店主』が残した、因果の錨だ」


カールは低い声で続けた。


「編劇会が成立して以来……」


「本部は何度も、何度もこの場所をフォーマットしようとした」


「いくつもの紀元を費やしてな」


「だが――」


カールの視線が、氷に覆われた巨大な門へ向く。


「一度たりとも……」


「その門を開けることすらできなかった」


「へえ?」


林野の目が輝いた。


「門すら開けられない――」


「居座り続ける居候ってわけか?」


「……」


カールの眉間がさらに深くなる。


だが林野は、もう彼の反応など気にしていなかった。


むしろ、口元に浮かんだ笑みは次第に大きくなっていく。


そこに恐怖はなかった。


あるのは――


同業者を見つけたときのような、奇妙な親近感。


そして、それ以上の好奇心だった。


「そいつは面白いな」


林野は無刃聖剣を握り直す。


「だったら、俺も一度くらい会ってみたい」


「伝説の『先代』が――」


「昔、どれだけの未払い勘定を残していったのか」


林野は楽しそうに笑った。


「……全部、帳簿を見せてもらおうじゃないか」


そして、もうカールのことなど相手にしない。


林野は仲間たちへ振り返った。


「行くぞ!」


「客人のお嬢さん!」


「レイン!」


林野が大きく手を振る。


「――一緒に家賃を取りに行くぞ!」


轟隆――!


次の瞬間。


林野が、何百年、何千年もの間、閉ざされていた古びた銅門へ向かって、一歩踏み込んだ。


そして――


「どけええええっ!」


ドガァン!!


無刃聖剣を持っていないほうの足で、思い切り蹴り飛ばす。


巨大な銅門が――


内側へ向かって、轟音とともに開いた。


舞い上がる大量の雪。


その向こうから流れ出してきたのは、冷たい空気ではなかった。


古びた紙の匂い。


墨の香り。


何百年、何千年もの間、誰にも触れられなかった歴史の気配。


巨大な書架が、暗闇の向こうへ果てしなく並んでいる。


無数の記録。


無数の契約。


そして――


誰にも書き換えられなかった、最初の物語。


林野はその入口に立った。


無刃聖剣を肩に担ぐ。


そして、いつものように笑った。


この瞬間――


浮世書斎の第三部。


その本当の核心となる頁が、ついに開かれた。

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