第二十九章 次の頁を開く
「もういい、カールさん。編劇会の決まり文句は、その辺にしてくれ」
林野は無刃聖剣を肩に担ぐと、目の前で顔を青ざめさせている首席徴収官を見下ろした。
そして、剣の柄で手にした分厚い帳簿を軽く叩く。
まるで大きな商談をまとめ上げたばかりの、抜け目のない店主のような笑みを浮かべた。
「北境第404区画が、今は浮世書斎のものになったんだ」
「だったら、ここを管理する『新しい大家』として――」
「まずは、あんたらにいくつかルールを決めてやらないとな」
カールは深く息を吸った。
胸の奥で渦巻く怒りと驚愕、そして到底信じられないという感情を、無理やり押し込める。
そして顔を上げた。
金縁の片眼鏡の奥にある目が、林野を睨みつける。
「林野……」
「私を拘束した程度で、編劇会本部が君に妥協するとでも思っているのか?」
「北境廃墟の底層構造には、『初期原稿』に隠された究極の秘密が眠っている」
「それは――君のような、たかが一軒の書斎の店主ごときが、因果反噬に耐えられるようなものではない!」
「因果反噬?」
林野は鼻で笑った。
そして、どうでもよさそうに肩をすくめる。
「俺なんかな、第七街区から雲中坊市までずっと殴り込んできたんだぞ」
「身体に抱えてる因果の借金なんて、あんたの帳簿より分厚いくらいだ」
「それが怖いってんなら――」
林野は鼻を鳴らした。
「最初から店に戻って、古紙でも売ってりゃよかったんだよ」
そして振り返る。
背後の墨清とレインに向かって、手をひらひらと振った。
「レイン」
「この徴収衛隊が持ってる設備、全部登録して帳簿に載せてくれ」
「分解できるものは全部バラして鉄屑として処分。分解できないものには、まとめて浮世書斎の封印を貼っとけ」
「勝手に場所を占拠した分の――滞納金ってことでな」
「墨清」
「周囲の因果ノードをしっかり見張ってくれ」
「こいつらがこっそり本部へ救援要請を飛ばさないようにな」
「了解」
墨清が鼻で短く返事をした。
断剣を空中で一閃する。
瞬間――
見えない剣気が周囲の空間を一気に封鎖した。
徴収法廷と外部とのデータ通信が、完全に遮断される。
一方のレインは、口元をにやりと歪めた。
機械義肢を嬉しそうに擦り合わせる。
「よっしゃ!」
「前から、こいつらの高次元機械が気に食わなかったんだ」
「今日は倉庫の在庫、全部空っぽにしてやるか!」
レインと墨清が迷いなく動き始める。
その姿を見ていたカールの口元が、激しく引きつった。
まさか。
至高法則にすら真正面から喧嘩を売る連中が――
高次元戦争を、よりにもよって最も俗っぽく、最も図々しい「家賃取り立て」の論理で処理するとは。
「林野……」
カールは歯を食いしばった。
「君はいったい、何をするつもりなんだ?」
林野はしゃがみ込んだ。
黒曜石の椅子に座った徴収官と目線を合わせる。
その顔から、いつもの軽薄な笑みが少しずつ消えていった。
代わりに浮かんだのは――
鋭さと落ち着きを併せ持った、店主としての真剣な表情だった。
「簡単だ」
林野は一本ずつ指を立てる。
「第一」
「北境廃墟は、今日からもう、お前ら編劇会の管理じゃない」
「第二」
「さっき、お前らは俺の列車の外装を壊した」
「車内の客人を怖がらせた」
「そのうえ、北境の空気まで汚した」
林野は帳簿を開いた。
「精神的損害と清掃費を合わせると――」
空白の頁を一枚めくる。
そして、指先に唾を少しつけると、帳簿へ勢いよく数字を書き込んでいく。
「……とりあえず、編劇会本部のツケにしておく」
林野は書き終えた数字を眺めた。
「いつか俺が、多次元宇宙の帳簿を全部集め終わったら――」
「この帳簿を持って、本部の正門まで直接乗り込んでやる」
「そのときは、お前らの総編集者と――」
「じっくり『帳尻合わせ』でもしようじゃないか」
カールは帳簿に書かれた、乱暴な数字を見つめた。
あまりの衝撃に――
危うく血を吐きそうになった。
その瞬間だった。
轟隆――!
北境廃墟の中心部。
一年中、鉛色の吹雪に閉ざされていた初期書庫の最深部から――
突然、重く、巨大な鼓動が響き渡った。
ドン。
ドン。
ドン。
その振動とともに、氷原を覆っていた雪が一斉に、広範囲にわたって溶け始める。
そして――
何百年、何千年もの間、氷の下に封じられていた無数の金色の光糸が、地中から一斉に天へと伸びていった。
光糸は空中で複雑に絡み合う。
やがて、それは一枚の巨大な光の絵巻へと姿を変えた。
ところどころが欠けている。
それでも、その広大さだけは隠しようがない。
それは――
北境が本当に歩んできた歴史。
そして、編劇会によって強引に抹消された――
「初期原稿」の残片だった。
レインと墨清の表情が、一瞬で変わった。
それまでの軽さは完全に消えている。
二人は、空中に広がる光の絵巻を凝視していた。
林野はゆっくりと立ち上がる。
帳簿を閉じる。
そして、その上に積もった雪を手で軽く払った。
遠くで、少しずつ広がっていく初期原稿の光。
林野はそれを黙って見つめていた。
いつもの、どこかふざけたような目ではない。
そこには初めて――
一軒の店を預かる「店主」としての、重い責任感が宿っていた。
「どうやら……」
林野は静かに呟く。
「本当の大家は、まだ登場してなかったみたいだな」
無刃聖剣を逆手に握る。
そして振り返ると、背後の仲間たちへ向かって、いつものように歯を見せて笑った。
「行くぞ」
「第二十六章の帳簿が、まだ終わってない」
林野は北境の地下を見据える。
「――北境の地下にいる、本当の大大家に会いに行こうぜ」




