第二十八章 破綻だらけの帳簿と、北境の初春
轟――!!!
無刃聖剣。
無数の人の世の息吹と、重く積み重なった人々の執念が絡み合って生まれた金色の刃が、虚空を引き裂きながら迫る「最終審判の裁決巨刃」と真正面から激突した。
その瞬間――
北境の氷原全体が、まるで見えない巨大な手に握り潰されたかのように、ぐっと歪んだ。
そして次の瞬間。
耳をつんざくような、巨大な消滅音が炸裂した。
エネルギーの余波が荒れ狂うこともない。
空間の乱流が広がることもない。
ただ、二つの剣が触れ合った、その一点から――
すべてが静かに崩れ始めた。
「そ、そんな……!」
黒曜石の椅子の上。
カールは片眼鏡の奥で、目を見開いた。
自分が誇りにしていたもの。
至高編劇会の絶対秩序を象徴する、高次元の法条。
それが――
林野のあまりにも素朴な剣光を前にして、
まるで乾いた紙屑のように、一枚ずつ剥がれ落ち、溶けていく。
「あり得ない!」
カールの声が震えた。
「その剣には……なぜコード論理の支えがない!?」
その声には、初めて明確な恐怖が混じっていた。
林野は歯を食いしばった。
両腕の筋肉が盛り上がる。
体内の真気と、第七街区との因果契約が轟音とともに共鳴した。
「そりゃそうだろ」
林野は剣をさらに押し込む。
「俺がこの手に握ってるのは――」
「コードなんかじゃねえ」
「生きてる人間が残してきた――」
「本物の『帳簿』だ!」
ぐっ――!
林野が片手で剣を前へ押し込んだ。
次の瞬間。
パリンッ!
澄んだガラスが砕けるような音が響いた。
あれほど巨大だった「最終審判の裁決巨刃」が――
真っ二つに叩き割られた。
ガシャァン――!
砕け散った巨刃は無数の光となり、吹雪の中へ消えていく。
林野はその勢いを利用して、一気に距離を詰めた。
無刃聖剣の切っ先が――
カールの喉元、そのわずか半寸手前でぴたりと止まった。
冷たい剣気が首筋を撫で、皮膚に一筋の血が滲む。
普段は高みから世界を見下ろし、鉄面皮のまま一切の情を見せない首席徴収官。
そのカールが今は、顔面を蒼白にして黒曜石の椅子に硬直していた。
指一本、動かせない。
周囲の徴収衛隊も同じだった。
先ほどまで殺気をむき出しにしていた彼らは、長官が制圧されたのを見て、互いに顔を見合わせる。
手にした幽青色の鎖を放つこともできず。
かといって、引くこともできない。
氷原に、妙な沈黙が落ちた。
「さて、カールさん」
林野は剣圧の大部分を引いた。
それでも剣先は、相手の喉元から離さない。
そして顔には、いつもの軽薄そうな笑みが戻っていた。
林野は懐から分厚い帳簿を取り出し、カールの目の前でひらひらと振ってみせる。
「これで、少しは落ち着いて話ができそうだな」
「北境廃墟の、ここ数百年分の『滞納利息』――」
「いったい、どうやって払ってもらおうか?」
カールは歯を食いしばった。
そして、冷たい目で林野を睨みつける。
「林野……」
「私を倒したところで、至高編劇会の結末を変えられると思っているのか?」
「北境の初期原稿は、とうの昔に封鎖されている」
「ここの因果網は死んだ帳簿だ」
「誰にも救うことなどできない……」
「誰が救うって?」
林野が即座に遮った。
そして、心底呆れたように目を逸らす。
「さっきから言ってるだろ」
「俺は家賃を取りに来たんだよ」
林野は堂々と帳簿を開いた。
「北境って土地が、今は浮世書斎のものになったんだ」
「だったら、そこに住んでる連中も、廃墟も――」
「ついでに、お前らみたいな勝手に乗り込んできた徴収官も」
林野は帳簿の一頁を指で叩いた。
「今日から全部、俺の帳簿に入ってる」
カールの顔がわずかに引きつった。
林野は振り返った。
隣に立つレインと墨清を見る。
二人とも、まだ目の前で起きたことを完全には理解できていないようだった。
そして林野は、その先へ視線を向ける。
遠くの北境の地平線。
そこには今までなかった、細い光の裂け目が生まれていた。
その向こうから――
本物の春の気配が覗いている。
氷原を覆っていた寒気が、少しずつ薄れていく。
まるで今まで何百年も閉じ込められていた北境が、この瞬間になって初めて、何か温かく、そして荒々しい力によって叩き起こされたかのようだった。
吹雪の向こう。
遠く、遠く。
白い雪煙の奥から――
高く、長く響き渡る汽笛が聞こえてきた。
蒸気機関の音。
新しい世界から、最初にやって来る列車の汽笛だった。
レインが振り返る。
「……列車?」
墨清も、遠くの地平線を見つめた。
林野はしばらく黙っていた。
そして、帳簿を閉じる。
「さて……」
その口元に、いつもの笑みが浮かんだ。
「どうやら――」
「第三部の嵐は、まだ始まったばかりらしいな」
林野は帳簿を軽く叩いた。
「だったら、こっちも急いで続きを書かないとな」
北境の氷は、まだすべて溶けてはいない。
だが――
確かに、春は始まっていた。
そして林野の帳簿もまた――
ようやく、本当に面白い頁を開こうとしていた。




