第二十七章 合法な帳簿と、道理の通じない剣
轟隆――!!
無数の幽青色の債務鎖が、高次元の審判による冷たい威圧をまといながら、まるで天穹から降り注ぐ豪雨のように押し寄せてきた。
瞬く間に「終焉号」と、その周囲の氷原すべてが覆い尽くされる。
空気には、因果律を強引に書き換えたときに生じる、鼻を刺すような焦げ臭さが充満していた。
普通の修士なら、ほんの一筋触れただけで――存在そのものに刻まれた記憶まで、その場で消し去られてしまうほどの力。
だが。
列車の乗降口に立つ林野は、まばたきひとつ増やさなかった。
それどころか、腰の無刃聖剣を抜こうとすらしない。
ただゆっくりと懐へ手を入れた。
そして取り出したのは――
分厚く、ぼろぼろで、しかも端には獣肉まんの油染みまで残っている、浮世書斎の帳簿だった。
林野はそれを何気なく目の前へ立てる。
嗡――!
その瞬間。
帳簿を中心として、素朴でありながら、途方もなく重い「人の世の息吹」が轟音とともに炸裂した。
勢いよく襲いかかってきた幽青色の債務鎖が、まるで底なしの泥沼へ突っ込んだかのように――
帳簿へ触れた瞬間、空中でぴたりと停止した。
帳簿の頁が激しくめくれていく。
そこに浮かんでいるのは、冷たいコードではなかった。
第七街区に暮らす何千人もの人々の、日々の呼び声。
レインが歯車を磨く、カチ、カチという音。
そして――
墨清が剣を振るったときに生まれる風の音。
「なに……!?」
黒曜石の椅子に浮かぶ首席徴収官カール。
金縁の片眼鏡の奥で、その瞳が大きく見開かれた。
彼の高次元演算論理において、絶対秩序によって構築された債務鎖が――
どうして何の規則性もないはずの「生活の雑音」によって、強引に相殺されている?
林野は片手で帳簿を支えたまま、もう片方の手で耳をほじった。
そして、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「カールさんよ」
「どうやら、あんたら編劇会の財務システム、長年メンテナンスしてなかったみたいだな」
林野は帳簿を軽く持ち上げる。
「口じゃ俺たちを負債資産だなんて言ってるが――」
「よく目を開けて見てみろ」
「ここに書かれてる一件一件はな」
「第七街区の露店の場所代から、北境廃墟に積み重なった何百年分もの利息まで――」
「全部、因果の印が押してある。証拠もある。ちゃんとした合法取引だ」
林野は帳簿を――
ばさりと閉じた。
その瞬間、声から笑いが消える。
「それより俺のほうこそ調べさせてもらおうか」
「おたくら編劇会が、人の財産を勝手に差し押さえるっていうなら――」
「その『強盗税』、どうやって弁償するつもりだ?」
「無礼な!」
カールの顔が怒りで青ざめた。
ここまで言っても全く動じず、それどころか無茶苦茶な理屈を並べているように見えて、すべて帳簿と証拠で裏付けてくる林野の態度に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
カールが両手を虚空へ押し下げる。
轟――!
背後の巨大な白い法条が一斉に再構成された。
無数の法条が絡み合い、やがて天穹そのものを引き裂く巨大な刃へと姿を変えていく。
「最終審判の裁決巨刃」。
「清算に応じないというのなら――」
カールの声が冷たく響く。
「その帳簿ごと、完全にフォーマットしてやる!」
ズガァァン――!!
巨刃が振り下ろされた。
北境の氷原ですら、その一撃によって強引に抉り取られる。
百丈にも及ぶ、漆黒の空間裂隙が大地を走った。
その威力は、もはや普通の修士が理解できる領域を遥かに超えている。
それは――
「規則級」の強制抹殺。
背後にいたレインと墨清の表情が同時に変わった。
二人がとっさに前へ出ようとした、その瞬間。
林野が一歩だけ横へ動き、二人の前を塞いだ。
「動くな」
静かな二文字。
それだけだった。
そして林野は、ようやく右手を腰の無刃聖剣へ伸ばした。
高次元コードの演算速度を競うつもりはない。
大道理を説くつもりもない。
林野の脳裏に浮かんだのは――
第一街区から雲中坊市へ。
そして今、北境の氷原へ。
ここまで歩いてきた道のりだった。
自分が守ってきたものは、壮大な世界なんかじゃない。
一人一人の、生きた顔。
扉を開け続けている一軒の店。
そして――
どうやったって踏み倒すことのできない、一件一件の家賃。
林野は目の前へ迫る巨大な裁決の刃を見上げた。
「俺の縄張りでタダ乗りするつもりなら――」
右手が柄を握る。
「この剣に聞いてみな」
「――俺の許可があるかどうかをな」
チャキン――!
無刃聖剣が鞘から抜かれた。
まばゆい神光などない。
ただそこにあるのは――
無数の普通の人々の執念と、人の世の息吹が絡み合って生まれた、最も純粋で、最も重い金色の刃。
林野は、虚空を引き裂きながら迫る「最終審判の裁決巨刃」を真正面から見据えた。
避けない。
退かない。
両手で無刃聖剣を握りしめる。
そして――
氷原を踏み砕くように、一歩踏み込んだ。
下段から上空へ。
真正面から。
渾身の一撃を――
斬り上げた。




