第二十四章 黄ばんだ契約書と、北境の古い勘定
朝のそよ風が第七街区の路地裏を吹き抜けていく。
浮世書斎の門前に置かれた、黄ばんだ古い契約書が風に煽られ、カサカサと音を立てていた。
林野は腕を組み、目の前にいる「頁守り」を名乗る背の曲がった老人を見下ろしていた。
契約書の焼け焦げた縁には、いまだ微かな金色の残留コードが明滅している。
そこから漂ってくるのは――。
ひどく古く、そして重い因果の気配だった。
「長期家賃?」
林野は眉を上げた。
口元には、笑っているのか呆れているのか分からない表情が浮かんでいる。
「じいさん」
「俺の浮世書斎が店を開いてから、受け取ってるのは今の家賃と、契約違反の賠償金だけだ」
「第一部の連中が、とっくに編劇会にフォーマットされて灰になっちまったからって、その死因まで俺のところへ家賃を取りに来るのか?」
林野は腰に下げた帳簿を軽く叩いた。
「そんな項目、こいつには書いてねえぞ」
老人の濁った瞳に、苦い色が浮かんだ。
そして激しく二度、咳き込む。
「……林店主には、まだお分かりにならないでしょう」
かすれた声が、静かな路地裏に響いた。
「第一部が崩壊した時――」
「至高編劇会は、真相を隠すために、ただすべての人間を抹消しただけではありません」
「北境廃墟に残されていた因果霊気まで、強制的に吸い上げたのです」
老人は、枯れた指をゆっくりと握り締める。
「我々、わずかに生き残った頁守りは――」
「最後に残された『初期原稿』の一頁を守るため、果てのない虚無の中を、何百年もさまよい続けてきました」
そう言って老人は、背後へと目を向けた。
朝霧に覆われ始めた、遠い空。
その向こうには、まだ北境の冷気が残っているようだった。
「編劇会の『究極書き換え』が、一日でも続く限り――」
「北境の寒気は、いずれ多次元世界の隅々にまで広がっていくでしょう」
「その時になれば……」
老人は林野を見る。
「雲中坊市だけではありません」
「ようやく家賃をすべて回収できた、あなたの書斎さえ――」
「記憶すら残らない、真っ白な土地へと変わってしまう」
老人の手にある契約書が、かすかに震えた。
「この契約書こそが――」
「北境最後の主権譲渡証なのです」
その言葉を聞いた瞬間。
店の中で機械義肢を調整していた雷恩の顔色が、一気に変わった。
「待て!」
雷恩が勢いよく立ち上がる。
「北境の主権譲渡証だと?」
「まさか……」
その声には、明らかな動揺が混じっていた。
「当時の大粛清は、単なるシステム崩壊なんかじゃなかったのか?」
「編劇会が『初期原稿』の秘密を隠すために――」
「わざと北境そのものを滅ぼしたっていうのか!?」
墨清もすぐに門前まで歩み寄った。
彼女は老人が持っていた契約書の印章をじっと見つめる。
そして、低い声で言った。
「もし北境の因果網が完全に沈黙すれば――」
「至高編劇会本部は、完全な『世界書き換え権限』を手に入れることになる」
「そうなれば……」
墨清の視線が、林野へ向く。
「私たち全員が――」
「過去の記憶ごと、彼らにとって不要なデータとしてフォーマットされるでしょう」
路地の入口。
それまで遠巻きに様子をうかがっていた街の住民たちも、その言葉を聞いた瞬間、息を呑んだ。
誰も口を開かない。
朝の風だけが、静かに路地裏を通り抜けていく。
林野は、しばらく黙っていた。
やがて――。
ゆっくりと腕を下ろす。
さっきまでの軽薄な表情が、少しずつ消えていく。
代わりに浮かんだのは、鋭い光だった。
林野は手を伸ばす。
老人の手から、黄ばんだ契約書をひょいと抜き取った。
表と裏を何度か確認する。
そして――。
何でもないことのように、自分の持っていた分厚い帳簿の間へと挟み込んだ。
「分かった」
林野は帳簿を軽く叩いた。
「もう、ここでそんなに悲壮な顔するなよ」
そして顔を上げる。
老人へ向けて、いつものように白い歯を見せて笑った。
「北境の主権譲渡証ってことは――」
「つまり今日から、北境廃墟も含めて、あの一帯の土地の家賃と因果の帰属権を――」
「俺が全部引き受けたってことだろ?」
老人は完全に言葉を失った。
「え……?」
しばらく林野の顔を見つめたあと、ようやく震える声を絞り出す。
「お……お引き受けになるのですか?」
「ですが、編劇会本部はすでに『裁決者』を派遣する準備を……」
「裁決者だろうが、総編集者だろうが――」
林野は腰の無刃聖剣へ手を伸ばした。
そして――。
抜く。
シャッ!!
古びた聖剣から、まばゆい金色の光が走った。
朝霧の中で、それはまるで昇ったばかりの烈日のように輝く。
路地裏に残っていた北境の冷気が、一瞬で吹き飛ばされた。
林野は剣を肩に担ぎ、笑う。
「何百年分も、俺たち浮世書斎に家賃と利息を滞納してるんだろ?」
「だったら――」
「向こうの連中を破産寸前まで追い込まなきゃ、俺が店主をやってる意味がねえだろ!」
そう言うと、林野は振り返った。
店の中にいる墨清と雷恩へ、片手をひらひらと振る。
「荷物をまとめろ」
「武器も忘れるな」
「北境のこの古い勘定――」
林野は無刃聖剣を握り直す。
その金色の光が、朝霧の向こうまで伸びていく。
「今日、まとめて精算しに行こうぜ!」




