第二十三章 門前の古書匠と、遅れて届いた請求書
コン、コン、コン。
重く、そしてどこか年老いたようなノックの音が、朝の路地裏に響き渡った。
ようやく静けさを取り戻したばかりの浮世書斎に、その音が静かに染み込んでいく。
林野は眉を上げた。
手にしていた食べかけの獣肉まんを、ひとまずカウンターの上へ置く。
それから手についたパンくずを軽く払い――。
すぐには扉へ向かわなかった。
隣にいる墨清と雷恩へと、視線を向ける。
「このノックの間隔……」
林野は耳を澄ませながら、口元を少しだけ歪めた。
「力が足りねえ。それに、昔の時代から残ってるカビ臭さと寒気まで混じってやがる」
そして、少し面白そうに笑う。
「雷恩」
「この感じ――北境の実家から来た知り合いじゃねえのか?」
雷恩の顔色が、三度のノックを聞いた瞬間にわずかに変わった。
次の瞬間、勢いよく立ち上がる。
視線は、固く閉ざされた木の扉へと釘付けになっていた。
機械義肢の中に組み込まれた黄銅の歯車が、感情の揺らぎに反応するように、耳障りな摩擦音を立てる。
「この間隔……」
雷恩の声が低くなる。
「旧世界の『頁守り』が使っていた合図だ」
一瞬、言葉が途切れた。
「あり得ない……」
「北境の記録庫は、あの大粛清の時に完全にフォーマットされたはずだ」
「どうして、生き残った人間がここまで来られる?」
墨清もすでに腰の断剣へ手を伸ばしていた。
その表情は険しい。
「誰であろうと――」
「このタイミングで世界の支流を越え、浮世書斎を見つけてやって来るということは、ただお茶を飲みに来たわけではないでしょう」
「罠の可能性もある。警戒して」
林野は二人の言葉を聞くと、肩をすくめた。
「俺の縄張りじゃ――」
腰に佩いた古びた無刃聖剣を、軽く叩く。
「天王老子が来たって、まずはこっちの手順に従ってもらうさ」
そう言って林野は、大股で扉の前まで歩いていった。
そして――。
戦火をくぐり抜け、それでもなお人の世の息吹を残している木の扉を、一気に開いた。
ギィィ……。
朝霧の向こう。
そこに、一人の老人が立っていた。
背中は大きく曲がっている。
身にまとっているのは、無数の継ぎ接ぎが施された灰白色の長袍。
手には一本の杖。
その杖は、引き裂かれた無数の書頁を幾重にも巻きつけて作られていた。
顔には、まるで刃物で刻みつけられたかのような深い皺が刻まれている。
だが――。
最も異様だったのは、その両目だった。
人間の瞳ではない。
そこにあるのは、絶えず下へと流れ落ちていく二列の金色のコード。
淡い墨の香りを漂わせながら、ゆっくりと頬を伝っている。
老人は顔を上げた。
濁った視線が、林野を捉える。
そして、老いた顔に――。
泣くよりもむしろ痛々しい笑みを浮かべた。
「お尋ねしたいのですが……」
声は、ひどくかすれていた。
「ここが――」
「至高編劇会の本部からでさえ、家賃を取り立てると噂される……」
「『浮世書斎』で、間違いありませんかな?」
林野は腕を組んだ。
門枠へ身体を預けたまま、老人を頭の先から足元までゆっくりと眺める。
そして、いかにも店主らしく、のんびりと口を開いた。
「場所は合ってる」
「ただな、じいさん」
林野は朝霧の向こうをちらりと見る。
「朝っぱらから北境の寒気をまとったまま押しかけてきて――」
「しかも、名刺代わりの挨拶状一枚も持ってねえ」
「雲中坊市の作法を、ちょっと知らなさすぎやしねえか?」
老人は、一瞬ぽかんとした。
やがて何かを思い出したように、震える手を長袍の内側へ差し込む。
そして――。
一枚の古びた紙を取り出した。
黄ばんでいる。
端には、焼け焦げた跡まで残っている。
ところどころ破れてはいるものの、それがただの紙ではないことは一目で分かった。
老人は、それを両手で林野へ差し出した。
「わしは……」
老人の声が、再び響く。
「ここを荒らしに来たのではありません……」
「第一部で、完全に消し去られてしまった者たちの――」
「死因に代わりまして……」
そこで老人は、一度言葉を止めた。
それから、林野をまっすぐ見つめる。
「店主殿……あなたに、一つお願いがあるのです」
「時空を越えて、長い間積み上がった――」
「『長期家賃』を、取り立てに参りました」
林野は、ゆっくりと視線を落とした。
老人の手にある、焼け焦げた古い契約書。
そこから漂ってくるのは、普通の紙とは明らかに違う、奇妙な因果の波動だった。
さっきまで浮かんでいた、いつもの軽薄な笑みが――。
ほんのわずかに消える。
黒い瞳が、細くなる。
「……長期家賃、ねえ」
店の奥。
墨清と雷恩も、その光景を見つめていた。
二人の胸に、同時に緊張が走る。
旧世界から届いた、一枚の古い契約書。
完全に消されたはずの人々。
そして――。
第一部から、時空を越えて届いた「未払いの請求」。
第三部へ続く、さらに大きな嵐が。
この瞬間、静かに幕を開けた。




