第十九章 嵐の前の最後の精算
墨藍色の暗雲が雲中坊市の真上から押し寄せ、空中に浮かぶ巨大な都市全体を、息苦しいほどの影で覆い尽くしていた。
空気中に漂う高次元エネルギーは、すでに実体を持っているかのように濃密になっている。
そのせいで、普段なら何の問題もなく流れている散修たちの霊力さえ、身体の中で滞り、固まっていくような感覚を見せ始めていた。
至高編劇会本部による「究極抹消プログラム」の起動まで――
残された時間は、あと十二時間。
第七街区は、かつてないほど静まり返っていた。
街の人々は、最初の頃のように慌てて逃げ惑ってはいない。
だが、どの家も扉と窓を固く閉ざしている。
通りには、嵐が来る直前のような、重く張り詰めた空気が漂っていた。
誰もが知っている。
路地の奥にある、あの古びた「浮世書斎」が――
雲中坊市全体の生死を左右する、最後の審判を迎えようとしていることを。
そんな中。
浮世書斎の店内だけは、不思議なほど静かだった。
林野は一枚の清潔な布を手にして、カウンターの木目を一寸ずつ、丁寧に拭いている。
その動きには焦りがない。
まるで外で荒れ狂っている嵐など、最初から存在していないかのようだった。
その隣では、墨清が雷恩の持ち込んだ「廃墟の鉄箱」を調整している。
いくつかの複雑な符文が解除されるにつれ、鉄箱の内部で荒れ狂っていた因果の記憶が、少しずつ静まり始めた。
やがてそれらは無数の光の粒へと変わり、書斎の地下に眠る歯車羅盤へと吸い込まれていく。
「林野」
墨清が顔を上げた。
額には細かな汗が浮かんでいる。
その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「核心因果網と書斎の地下密室、二度目の結合が完了したわ」
「でも、それは同時に――」
墨清は一度言葉を切った。
「三日後、編劇会本部のあの『審判長』が降臨した瞬間、浮世書斎そのものが、すべての規則反噬の中心になるってことよ」
そして、林野を見る。
「私たち……本当に二人と、機械義肢の人間一人だけで戦うつもりなの?」
雷恩は少し離れた椅子に座り、レンチを使って右腕の真鍮製の歯車を慎重に固定していた。
その言葉を聞くと、自嘲するように苦笑する。
「俺みたいな、途中から機械になった半端者のポンコツまで数えるなら――」
「勝算は、もう少し下がるかもしれないな」
「何言ってるんだよ」
林野は手を止めた。
手にしていた布をカウンターへ放り投げ、呆れたように白い目を向ける。
そして二人の前まで歩いていくと、腰に両手を当てた。
その顔には、いつものふてぶてしい笑みが浮かんでいる。
「何が『二人だけ』だよ」
「お前ら、忘れてないか?」
林野は親指で外を指した。
「この第七街区には、毎月俺に家賃を払ってる――いや、払ってない奴も含めて、何千人もの街の連中が住んでるんだぞ」
そして、さらに胸を張る。
「それにな――」
林野は自分の胸をドンと叩いた。
「ここは浮世書斎だ」
「俺がこの店の店主である限り、たとえ天王老子がやって来たってな――」
「俺の看板を壊したいなら、まずはルールに従って、家賃を払ってもらおうじゃないか!」
その時だった。
書斎の分厚い木の扉が――
コン、コン、コン。
突然、三度叩かれた。
音は決して大きくない。
だが、死んだように静まり返った街の中では、不思議なほどはっきりと響いた。
墨清と雷恩が顔を見合わせる。
二人は無意識に武器を握り直した。
だが、林野は眉を上げただけだった。
そして扉へ歩み寄ると、そのまま勢いよく木の扉を開いた。
そこに立っていたのは――
誰も予想していなかった顔ぶれだった。
豆腐売りの唖叔。
その手には、ずっしりと重そうな布袋が提げられている。
その隣には張じいさん。
手には、湯気の立つ獣肉麺の丼を抱えていた。
さらにその後ろには――
普段なら、数枚の銅銭を巡って林野と顔を真っ赤にして言い争っているような散修たちまで、何人も立っている。
「唖叔?」
林野は目を丸くした。
「みんなどうしたんだ?」
「外はこんな天気なんだから、家で大人しくしてればいいだろ。わざわざこんなところまで来て、何してるんだよ」
唖叔は何も言わなかった。
ただ、手にしていた重い布袋を、門枠の前へドンと置いた。
袋がほどける。
その中から現れたのは――
整然と積み重ねられた、淡い光を放つ大量の霊石。
そして、決して低くはない等級の坊市素材の数々。
それは、第七街区に暮らす平民と散修たちが、歯を食いしばってかき集めた――
自分たちの全財産だった。
張じいさんは、湯気の立つ獣肉麺を林野の手に押しつけた。
そして、皺だらけの顔に、不器用ながらも力強い笑みを浮かべる。
「林の坊主」
「外にいる白磁の仮面をつけた連中が、俺たちの場所をぶっ壊そうとしてることくらい、みんな分かってる」
「俺たちは修為も低い。お前や墨のお嬢ちゃんみたいに、空の上で戦うこともできん」
張じいさんは一度、言葉を切った。
「だがな――」
「この何年もの間、お前にはずいぶん世話になった」
「第七街区の家賃も、人との付き合いも――俺たちは、一度だって忘れちゃいない」
「そうだ!」
背後にいた散修たちも、次々と声を上げた。
「この店を守れば、俺たちの家も守れる!」
「ここを失ったら、帰る場所がなくなる!」
「だから――頼む!」
林野は、手の中にあるまだ熱い麺の丼を見つめた。
それから、一人、また一人と顔を上げる。
目の前に並んでいるのは、いつものように口喧嘩をしたり、家賃を値切ったり、くだらないことで言い争ったりする街の人々だった。
だが今、その顔には――
誤魔化しのない、真っ直ぐな決意が浮かんでいる。
林野はしばらく黙っていた。
いつもなら、ここで何か一言、軽口でも叩くところだった。
けれど――
今日は、珍しく何も言わなかった。
林野はゆっくりと息を吸い込む。
そして、手にしていた丼を静かに脇へ置いた。
それから――
街の人々へ向かって、力強く頷いた。
「分かった」
「みんなが家賃と信頼を、俺に預けてくれたっていうなら――」
林野は振り返った。
そして、古びた無刃聖剣を抜き放つ。
次の瞬間。
金色の光が剣身から一気に迸り、天へ向かって真っ直ぐに駆け上がった。
「……今日の浮世書斎は、開店だ」
林野は剣を構える。
「客が来るってんなら――」
「最後まで、とことん付き合ってやるよ!」
金色の光が、雲中坊市の暗い空を貫いた。




