第十七章 路地裏の追手と、旧世界の残響
朝霧が路地の奥で激しく渦巻いた。
先ほどまで穏やかだった空気に、冷たい幽青色の波紋が幾重にも広がっていく。
やがて霧の中から、重厚な鎧をまとい、白磁の仮面をつけた数人の人影が、音もなく姿を現した。
その手に握られた長戟からは、凍てつくような規則の棘が絶え間なく吐き出されている。
瞬く間に、浮世書斎へと続く路地の入口は完全に封鎖された。
先頭に立つ審判長は、もはや余計な言葉すら口にするつもりがないらしい。
片手を上げる。
次の瞬間――
一本の冷たい因果の鎖が、雷恩の背後めがけて一直線に放たれた。
「危ない!」
墨清の顔色が変わる。
手にした断剣を抜こうとした、その瞬間だった。
温かく、力強い手が彼女の肩を押さえた。
「そんなに緊張するなよ、客人のお嬢さん」
林野がニヤリと笑った。
そして、無刃聖剣を何気なく身体の前へと横たえる。
一歩も動いていない。
ただ、身体の奥に残された意志が、地下密室に眠る歯車羅盤と微かに共鳴した。
轟ッ!
浮世書斎の門枠を境に、金色の文字の波紋が一気に広がった。
猛然と迫っていた幽青色の鎖は、金色の波紋に触れた瞬間――
まるで雪が煮え立つ湯に触れたかのように、瞬く間に崩れ落ちた。
無数の光の欠片となり、朝霧の中へ消えていく。
「……そんな、馬鹿な……!」
先頭の審判長の仮面の奥から、驚きと怒りが入り混じった声が漏れた。
「第七街区の底層因果網は、すでにリセットされたはずだ!」
「なぜだ……なぜ、ここだけ規則抗性が強まり続けている!?」
林野は眉を上げた。
そして半身だけを門の外へ出し、仮面の一団へ向かって軽く手を振る。
「おーい、そこの執行者さんたち」
「朝っぱらから人の店先で物騒なことを始めるなら、ちゃんと店主の許可を取ってくれないか?」
林野は無刃聖剣を肩に担ぐ。
「それで、植木やら何やらを壊したうえに、新しく来た優良物件の客人まで怖がらせて……」
「いったい何で弁償するつもりなんだ?」
雷恩は、目の前に立つ若い店主を呆然と見つめた。
旧世界の廃墟から、ここまで逃げてくる間。
雷恩は、自分が生き残るために仲間を切り捨て、他人を犠牲にしてきた修仙者や流亡者を、あまりにも多く見てきた。
だが――
至高編劇会の執行隊を目の前にして。
家賃や弁償の話を平然と口にする人間など、今まで一度も見たことがない。
「林店主……」
雷恩は歯を食いしばった。
機械義肢から伝わってくる激痛を必死にこらえながら、低い声で告げる。
「あいつらは『虚構の主』直属の審判廷だ」
「先頭にいる奴が持っているのは『抹消の権杖』。俺の背負っている廃墟の鉄箱を回収するために送り込まれた連中だ!」
「虚構の主だろうが、虚構の孫だろうが――」
林野は振り返りざま、無刃聖剣を抜いた。
金色の光が剣身を流れ、その輝きが、毅然としながらもどこかふてぶてしい林野の横顔を照らし出す。
「第七街区に入った」
「このボロい門をくぐった」
「だったら、もう俺の浮世書斎の一時的な客人だ」
林野は剣先を仮面の一団へ向けた。
「俺の縄張りで客を連れていきたいってんなら――」
「まずは、この剣が許すかどうか聞いてみるんだな!」
言葉が終わると同時に。
林野が地面を強く踏み込んだ。
ドンッ!
その身体が、一筋の金色の光となって飛び出す。
正面から、仮面の執行者たちへと突っ込んでいった。
狭い路地の奥で、凄まじい規則の衝突が一瞬にして炸裂した。
金色の烈火と幽青色のコードが入り乱れ、互いを引き裂いていく。
激しい余波が石畳を走り、路地全体の床が一枚、また一枚とひび割れていった。
墨清は深く息を吸う。
そして隣にいる、負傷した雷恩へと視線を向けた。
「何をぼんやりしているの?」
「鉄箱を中へ運んで!」
「まさか、この人の苦労を無駄にするつもり?」
雷恩は力強く頷いた。
残された生身の腕と機械義肢。
その両方を使って、重い鉄箱を抱え上げる。
「……分かった」
足元をふらつかせながらも、雷恩は浮世書斎の薄暗い店内へと退いていった。
そして――
路地の中央。
林野は一人、一振りの剣だけを手にしていた。
その一人の青年が、数十人もの精鋭執行者たちを、朝霧の中へと押し返している。
剣を振るうたびに、澄んだ音が響いた。
カチン。
パキン。
それは、規則そのものが砕ける音だった。
一つ。
また一つ。
金色の刃が幽青色のコードを切り裂いていく。
それはまるで――
旧世界と新たな秩序。
その二つが、今この瞬間、最も直接的な形でぶつかり合っているかのようだった。




