第十六章 朝霧の来訪者と、機械の残響
朝霧が路地の奥に立ち込め、そこにはかすかな機械油と古びた紙が混じり合ったような匂いが漂っていた。
浮世書斎の古びた木の扉は開け放たれている。
林野は片手に無刃聖剣を携え、門枠にもたれかかっていた。
その隣では、墨清が断剣を握ったまま、半歩も離れずに警戒している。
二人の数歩先。
そこには、背の高い、ひどく疲れ果てた姿の青年が、静かに立っていた。
年の頃は二十歳そこそこに見える。
身につけているのは、もはや元の色さえ分からなくなった重厚なロングコート。
左腕と胸の半分は、精密な歯車と真鍮の管が複雑に組み合わされた機械義肢へと置き換えられていた。
今もその機械構造からは、ジジジ……という微かな電流音が漏れ、青白い火花が時折、残光のように瞬いている。
そして何より目を引くのは、青年が背負っている巨大な鉄箱だった。
その箱の隙間からは、墨の香りを帯びた透明な液体が絶え間なく滲み出し、石畳の上に長い跡を残している。
「ゴホッ……ゴホ、ゴホッ……」
青年が激しく咳き込んだ。
その声は、まるで錆びついた鉄板同士を擦り合わせているように、ひどく掠れていた。
彼はゆっくりと顔を上げる。
その目には光がなかった。
ただ、極度の疲労だけが滲んでいる。
そして――
「浮世書斎」という四文字と、その門前に立つ林野の姿を目にした瞬間。
張り詰めていた青年の神経が、ほんのわずかに緩んだ。
「ここが……編劇会の記録にあった、雲中坊市唯一の『法外の地』なのか?」
青年は背後の鉄箱を右手で固く掴んだ。
声には警戒と、わずかな絶望が混じっていた。
林野は青年を上から下まで眺める。
そして最後に目を止めたのは、ジジジ……と火花を散らしている機械の腕だった。
林野は眉を上げた。
「法外の地ってほど大したもんじゃないけどな」
そう言ってから、何でもないことのように続ける。
「ただ、ここはちゃんと商売してる書斎だ。あんたの格好を見る限り……この逃避行、ずいぶん苦労したみたいだな」
林野は一度言葉を切り、自然な口調で付け加えた。
「先に言っとくけど、本店は小さな商売だからな。ツケは利かない。泊まるにしろ、避難するにしろ――まずは家賃の相談からだ」
青年は明らかに面食らった。
これまで幾度となく苛烈な追跡と裏切りを経験してきたのだろう。
刀光剣影も、腹の探り合いも、もはや珍しいものではない。
それなのに――
全身傷だらけで、明らかに巨大な勢力から追われている危険人物を前にして。
この書斎の店主が最初に口にした言葉は、まさかの家賃の話だった。
しばしの沈黙の後。
青年の硬く強張っていた口元が、ひどくぎこちない苦笑へと変わった。
「家賃……霊石は持っていない。編劇会の信用点もない」
「霊石がない?」
林野は眉をひそめ、わざとらしく手を振った。
「そりゃ困ったな。うちは小さな商売だから、タダ乗りは受け付けてないんだが……」
「だが、俺にはこれがある」
青年が林野の言葉を遮った。
彼は大きく息を吸い込み、背中から重い鉄箱を外す。
そして――
ドンッ!
鉄箱は重々しい音を立て、書斎の門前にある石畳へと落ちた。
箱が開かれる。
その瞬間。
凄まじく巨大で、純粋な「物語因果力」が一気に周囲へと広がった。
それは修仙者が扱う霊気ではない。
何百、何千もの世界が栄え、そして滅びていった記憶そのものを背負った、重く、濃密な力だった。
「これは……『忘却の書』の残章……?」
鉄箱の中身を目にした瞬間。
墨清の顔色が変わった。
思わず声を失うほどの驚きだった。
「あなたはいったい何者なの? どうしてそんなものを持ち歩いているの?」
そして彼女は、さらに低い声で続けた。
「虚構の主が、全域にわたってあなたを追っているのよ!」
青年は墨清を見た。
それから林野へと視線を移す。
そして、静かに口を開いた。
「俺の名は、レイン」
「第一部の廃墟の辺境から来た」
青年は鉄箱へと目を落とした。
「俺が背負っているのは――」
「強制的に抹消された、旧世界全体の真実だ」
林野は地面に置かれた、淡い光を放つ鉄箱を見た。
それから、警戒を解こうとしない墨清を見る。
そして再び、目の前の青年――レインを見つめ直した。
林野の顔から、いつもの軽薄そうな笑みが少しだけ消える。
だが、次の瞬間。
彼は無刃聖剣を脇へ収め、ニヤリと笑った。
「まあ、いいか」
「これだけデカい『家賃』を持ってきたっていうなら、雲中坊市のルールも、うちじゃ関係ないな」
林野は身体を横へずらし、書斎の中へ手を向けた。
「入れよ、レインさん」
そして、ふと思い出したように付け加える。
「ついでに一つ言っとくけど――」
「どうやら、あんたの後ろに、厄介な尻尾がついてきてるみたいだぞ」
その言葉が終わった瞬間。
先ほどまで静かだった路地の入口で、朝霧が突然、大きく渦巻いた。
数本の幽青色の光が、音もなく霧の中に浮かび上がる。
冷たい殺意をまとった光影が――
路地全体を、完全に封鎖していた。




