第十五章 三日後のはずだった来訪者
あの天地を揺るがすような執行艦隊の襲撃から、すでに丸二日が過ぎていた。
第七街区には、久しぶりに穏やかな日々が戻っていた。
空気中にはまだかすかな高次元エネルギーの波動が残っているものの、坊市の散修や平民たちは、すでに再び店を開き、露店を並べ始めている。
そして、路地の奥にある「浮世書斎」の前を通る者たちは、必ずと言っていいほど、店へ向かって敬意を込めた一礼をしていく。
彼らにとって、今にも潰れてしまいそうなこの古びた小さな店は――
もはや、この街区全体を守る守護神のような存在になっていた。
そんな中。
浮世書斎の店内では――
林野が脚立代わりの高い椅子に乗り、手には羽根ばたきを握りながら、一番上の本棚に積もった埃を真剣な顔で掃っていた。
「ねえ」
墨清は腕を組み、カウンターにもたれかかっている。
手には、先ほどきれいに磨き終えた半分になった断剣。
その口元には、からかうような笑みが浮かんでいた。
「天下の救世主様である店主が、朝っぱらから修行にも行かず、あの原生残頁の研究もせずに――」
「こんなところで掃除?」
林野は手にしていた雑巾を横へ放り投げ、椅子から飛び降りると、呆れたように目を回した。
「修行?」
「そんなもん、飯が食えるのか? 家賃の足しになるのか?」
「それに――」
林野は棚を見上げた。
「明後日には、システムの通知に出てきた『虚構の主』とやらの流亡者が、書斎の扉を叩く日なんだろ?」
「店を片付けておかないと、客が入ってきた瞬間に『ここはゴミ捨て場か?』って思われるだろ」
「そんなことになったら、雲中坊市で高級客人相手の商売なんてできなくなるじゃないか」
墨清は呆れたように首を振った。
ちょうど何か言おうとした、その時だった。
彼女の顔から、ふっと笑みが消えた。
ほぼ同時に――
それまで晴れ渡っていた雲中坊市の空に、何の前触れもなく、奇妙な薄霧が漂い始めた。
淡い墨緑色を帯びた霧だった。
第七街区全体を包んでいた喧騒が、一瞬にして途絶える。
空気の温度が急激に下がった。
まるで、時間の流れさえも半歩ほど遅くなったかのようだった。
書斎の隅に置かれていた巨大な虚構の書が、ひとりでに頁をめくり始める。
パラ、パラ、パラ――。
乾いた音が店内に響いた。
やがて、冷たい銀色の光を帯びた文字が、空中に一行ずつ浮かび上がっていく。
【警告:三日間の期限が前倒しされました。】
【虚構の主の流亡者が第七街区入口へ到達しました。】
【現在の契約状態:未定義。】
林野の動きが止まった。
彼は手についた埃を軽く払い、ゆっくりと振り返る。
その視線の先には、固く閉ざされた木の扉。
その向こうから――
重く、一定の間隔で響く足音が聞こえていた。
それは修仙者が剣に乗って飛来する音ではない。
むしろ、何かが長い旅路を歩き続け、重い身体を引きずりながら進んできたような――
金属製の靴底が石畳を踏みしめる音だった。
「どうやら――」
林野は口元を吊り上げる。
「明後日まで待つ必要はなさそうだな」
その目には恐怖など一切なかった。
むしろ、何か面白いものを見つけた子供のような、期待に満ちた光が宿っている。
林野はカウンター脇に立てかけてあった刃なき聖剣をひっつかむと、大股で入口へ向かった。
「行こうぜ、客人のお嬢さん」
「この旧世界から逃げてきた『流亡者』が――」
「一体、どれだけの家賃を持ってきたのか、見に行こうじゃないか」
墨清は深く息を吸い、断剣を鞘へ収めた。
そして林野の後を追う。
「気をつけて、林野」
「虚構の主に追われるほどの人物よ」
「普通の存在であるはずがないわ」
ギィ……。
小さな軋み音を立てながら、浮世書斎の木の扉がゆっくりと開かれた。
朝霧の向こう。
路地の果てに――
背の高い、そしてひどく疲れ果てた人影が、静かに立っていた。




