第89話 戦雲の夜
ユアンの恋心に翻弄されるキド、その頃皇宮では帝国の運命を左右する軍議が静かに始まっていた――。
ユアンはラミアへの教育を終え、報告のため執務室へ向かった。
廊下を歩きながら、小さく息をついた。
今日は少し長くなった。
ラミアは理解が早く、その分こちらも手を抜けない。
執務室の扉を開ける。
――が。
「お、お待ちしておりました。
ユアン嬢」
そこにいたのはルードではなく、何故か直立不動のキドだった。
落ち着かない様子で背筋だけが妙に伸びている。
「……ルード様は?」
ユアンの視線が鋭くキドを射抜いた。
キドは一歩後ずさった。
「こ、皇宮で開かれている軍議に参加しております」
思わず視線を逸らした。
「どうして、教えてくださらないの?」
静かな声だった。
だが、執務室の温度が一瞬で下がる。
「い、いえ、あまり他家の家門の方に当主のご予定をお伝えする訳には……」
「そう」
ユアンはゆっくり瞬きをした。
「私が赤の他人、そう申し上げておりますのね?」
執務室の空気が凍りついた。
キドの背中を冷たい汗が伝う。
「い、いえ、そう言う訳では」
声が少し裏返る。
「では、どういう訳ですの?」
ユアンは一歩近づいた。
(誰か助けて)
キドは心の中で天を仰いだ。
剣を持った敵より、ユアンの乙女心の方が遥かに恐ろしい。
⸻
その頃――皇宮では。
皇宮 軍議の間
皇帝の召集により、軍議が開かれていた。
軍議の間には、帝国の貴族達が並んでいる。
公爵、侯爵、伯爵――
各家門の当主達が皇帝の前に集められていた。
皇帝の言葉が静かに落ちる。
「戦時下にある同盟国へ援軍を送る」
皇帝の視線が、ゆっくりと諸侯を巡る。
「各家門は、有する兵力に鑑み、これに応ぜよ」
軍議の間は、重苦しい空気に包まれた。
誰も声を上げない。
ただ、静かに視線が巡る。
侯爵は眉を寄せ、
伯爵は口元を引き結び、
年老いた男爵はゆっくりと息を吐いた。
同盟国への援軍。
その一言の意味を、ここにいる者達は誰もが理解していた。
帝国が動けば、
兵が動き、
領地が動き、
そして――
人が死ぬ。
その重さを知る者ほど、口を閉ざす。
広い軍議の間には沈黙だけが落ちていた。
⸻
軍議が終わり、皇宮の廊下に出たルード。
人の気配が消えた瞬間、小さくため息を吐いた。
「ルード。いいかな?」
穏やかな声が背後から掛かる。
振り返ると皇太子が立っていた。
二人は言葉少なに歩き、廊下の奥にあるバルコニーへ出た。
夜風が静かに吹き込む。
皇宮の庭園が遠くに広がっていた。
皇太子は欄干に軽く手を置き、外を眺める。
しばらく黙ったまま夜景を見ていたが、やがて口を開いた。
「皆は元気、かな?」
穏やかな声だった。
「はい。相変わらずです」
ルードは短く答える。
皇太子は小さく笑った。
「私が滞在したのは、つい先日だったな」
その言葉に、ルードは眉間に皺を寄せたままだった。
皇太子はその様子を見て、肩をすくめる。
「君には、難しい選択を迫る事になるな」
どこか気遣うような視線が向けられる。
「いえ」
ルードは背筋を伸ばした。
「各家門の当主、皆同じですから」
毅然とした答えだった。
皇太子は少しだけ目を細める。
「……第二皇子は」
ルードがさりげなく尋ねた。
皇太子は小さく息を吐き、珍しく声を弾ませた。
「ああ。あいつは、もちろん楽しそうだよ」
あえて場を明るくするように。
ルードもつられて口元を緩める。
「そうですか」
短い沈黙。
夜風だけがバルコニーを通り抜けた。
やがてルードは一礼する。
「それでは失礼いたします」
足音が遠ざかる。
バルコニーに残ったのは皇太子一人だった。
しばらく庭園を見下ろしていた。
そして――
口元の笑みが消え、やがて目元の笑みも消えた。
穏やかな仮面が静かに落ちた。
「……嫌な予感が、当たらなければいいけどな」
皇太子は外へ視線を向けたまま、低く呟いた。
夜風だけがその言葉をさらっていった。
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