第87話 両手に花?
ルードとラミアと、ユアンのお散歩。
皇宮・執務室
高い天井と重厚な書架に囲まれたその部屋は、昼でありながら静謐な空気に満ちていた。
書類をめくる音だけが、静かな室内に響いている。
机の奥に座る皇帝は書類から目を離さぬまま、低く口を開いた。
「公爵城はどうだった」
執務室の中央で、皇太子は静かに一礼する。
「滞在は穏やかなものでした」
簡潔な報告に、皇帝は書類を一枚めくる。
「……それで」
短く促す声。
皇太子は少し思い出すように視線を上げた。
「ロエルの頭を撫でました」
その瞬間、書類をめくる手が止まる。
ゆっくりと視線が上がった。
「……何故だ」
「ラミアをよく撫でているので、少し気になりまして」
執務室に短い沈黙が落ちる。
皇帝は椅子の背にもたれ、皇太子を見つめた。
「反応は」
皇太子は少し考えるように首を傾げる。
「固まりました」
一拍。
「しばらく動きませんでした」
皇帝は小さく息を吐く。
「……会話は」
「特に」
わずかな間を置いて、皇太子は続けた。
「その後、茶を頂きました」
執務室に再び沈黙が落ちる。
皇帝の指先が机を軽く叩いた。
「……そうか」
皇太子は変わらぬ穏やかな表情のままだった。
「美味でした」
皇帝の視線がゆっくりと上がる。
「それは聞いていない」
皇太子はわずかに微笑む。
「公爵城は落ち着いておりました。特に問題はないように見受けられます」
しばらく皇帝は皇太子を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうか」
報告は終わりだった。
皇太子は一礼し、踵を返して扉へ向かう。
その手が扉にかかったところで、ふと思い出したように振り返る。
「申し遅れましたが」
皇帝の視線が上がる。
「ラミアは元気そうでした」
一瞬、沈黙。
そして低い声が落ちた。
「……それは最初に言え」
皇太子は小さく微笑み、そのまま執務室を後にした。
重い扉が静かに閉まる。
再び静寂に包まれた執務室で、皇帝は書類に視線を戻しながら、わずかに息を吐いた。
「……相変わらずだな」
その声は静かな部屋に溶けて消えた。
公爵城 庭園
ルードとラミアは、ゆっくりと庭園を歩いていた。
午後の陽光が柔らかく花壇を照らし、色とりどりの花が風に揺れている。
ラミアは足を止め、小さく身をかがめて花を眺めた。
「皇太子が帰って寂しくないか?」
ルードがふと尋ねる。
ラミアは顔を上げ、少し考えるように視線を泳がせたあと、にこりと笑った。
「寂しいですが、ルードお兄様がいてくださるので大丈夫です」
その笑顔に、ルードは目を細める。
「そうか」
自然とラミアの手を取り、再び歩き出した。
ラミアもその手を握り返す。
穏やかな時間だった。
花の香りと、風の音だけが静かに流れている。
(……久々にゆっくり出来るな)
そう思った、その瞬間。
「ルード様」
背後から聞こえた声に、ルードの足が止まった。
ほんの一瞬だけ、聞こえなかった事に出来ないかと考える。
だが。
「ユアン様」
ラミアが振り返り、嬉しそうに声をかけた。
「私、本日は遊びに参りましたの」
優雅な笑みを浮かべたユアンが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「そうだったのですね。ユアン様もご一緒にお散歩しませんか?」
(あぁ。ここまでか……)
ルードは心の中で小さく何かを諦めた。
「殿下が、そう仰られるなら私は構いませんわ」
ユアンはそう言って二人の隣に並ぶ。
ラミアは嬉しそうだった。
一方、ルードの表情にはゆっくりと影が差し始めていた。
「殿下とルード様は仲がよろしいのですね」
ユアンの視線が、二人の繋がれた手に落ちる。
ラミアはくすっと笑った。
「ユアン様もお手をお繋ぎしましょう」
ルードは木を見ていた。
感情のない顔で。
「お兄様」
「え?」
ルードは慌ててラミアに向き直る。
「ユアン様ともお手を」
「何故だ」
即答だった。
額にじわりと汗が浮かぶ。
「ルード様。殿下が仰っておられるのです」
ユアンが涼しい顔で追撃する。
ルードの背中に嫌な汗が流れた。
(これでは、俺が悪いみたいではないか)
「……ユアン嬢」
ルードは諦めて手を差し出した。
最後の抵抗として、手を添えられる位置に。
(頼む、エスコートにしてくれ)
だがユアンは迷いなくその手に重ね、そのまま下におろした。
右手にラミア。
左手にユアン。
ルードは遠くの空を見上げた。
(……地獄か)
⸻
執務室
ルードは机の前の椅子に腰を下ろし、こめかみを軽く押さえていた。
そこへ上級騎士が近づいてくる。
どこか楽しそうな顔だった。
「ルード様、先程庭園で羨ましがられてましたよ」
「何故だ?」
ルードは顔を上げずに答える。
上級騎士は肩をすくめた。
「騎士団員も使用人も、男達が揃って足を止めて見てました」
「右手に皇女殿下、左手にユアン嬢。両手に花だったじゃないですか」
ルードはゆっくり顔を上げる。
「片手に花、片手に毒花だったがな……」
椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
「何がそんなに嫌なのですか?」
キドが首を傾げながら尋ねる。
「ルード様の面接を完璧に突破できる令嬢はユアン嬢だけですよ」
「ユアン嬢美人ですし」
上級騎士も腕を組みながら頷いた。
ルードはしばらく黙っていた。
机の上の書類を指先で軽く叩きながら、ぽつりと呟く。
「……やはり、条件ではないな」
キドと上級騎士が顔を見合わせた。
「では……」
キドが少し身を乗り出す。
「何だ?」
ルードは面倒そうに視線だけ向ける。
「つまり?」
「だから何だ?」
「いや、この流れ、普通は他に慕う令嬢ができたとか、こんな女性が良いとか…」
「そんなものはない!」
ルードが即座に言い切る。
「じゃあ、何なんですか?」
キドと上級騎士は呆れた顔をする。
「お前達が勝手に勘違いしただけだろう!」
「どうされたいのですか?」
「どうも、何も」
ルードは椅子を少し回し、窓の外へ視線を向けた。
「俺はラミアが笑っていればそれでいい」
「はぁー?」
キドが間の抜けた声を出す。
その時だった。
「ハハハ、ルードはもうお父さんだな」
軽い笑い声が扉の方から聞こえた。
振り向くと、いつの間にかロエルが執務室の入口に立っていた。
扉にもたれかかり、面白そうにこちらを見ている。
「娘の事が一番なんだよ」
「皇女殿下は娘じゃありません!」
キドが即座に突っ込む。
「それじゃあ困るんですよ!」
キドは頭を抱えた。
ルードは無言だった。
「……そろそろ屋根を塗り替えなきゃな」
ルードは席を立った。
「逃げましたね!?」
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