第72話 少し立ち寄っただけなのだが、
夏の庭園。
穏やかな紅茶の時間と、穏やかではない公爵家。
緑が青々と茂り、虫が音色を奏ではじめた夏の庭園。
入道雲がゆっくりと空を流れ、風はない。
だが、ガゼボの中だけは木陰に守られ、涼やかな空気が保たれていた。
ラミアはそこで優雅に紅茶を口にしている。
背後には、なぜか落ち着かない様子の女官たち。
頬が妙に赤い。
視線が泳いでいる。
ささやき声。
「……やはり本物」
「お近くで拝見すると……」
「お綺麗……」
明らかに様子がおかしい。
⸻
その頃。
騎士団の業務を終え、身体を清めたキドは渡り廊下を歩いていた。
鎧を脱ぎ、軽装に替えたとはいえ、肩にはまだ疲労が残る。
庭園に目を向け、深く息を吸う。
草花の香り。
……と、その瞬間。
「ん?」
ガゼボに、人影が見えた。
ラミアの向かい。
見慣れない。
「誰だ?」
歩みを速める。
(ユアン嬢……ではない。そもそもドレスじゃない)
(ルード様は執務中)
(ロエル様……いや、あの背筋は違う)
近づき、顔を視認した瞬間。
「……っ!!」
キドは止まった。
時間が止まった。
脳が拒否した。
「……何故、ここに……?」
そして次の瞬間。
踵を返して全力疾走。
⸻
執務室
「ルード様!!」
勢いよく扉が開く。
「何だ!? 敵襲か!?」
「そ、そ、そんなことより早く!!」
「敵襲より重大なのか!?」
「はい!!」
腕を引かれ、ルードは半ば引きずられる形で庭園へ。
⸻
ガゼボ。
ルードの足が止まる。
「……皇太子殿下」
そこにいたのは、艶やかな黒髪を持つ、涼しげな面差しの青年。
皇太子フラン。
優雅に紅茶を傾けている。
「やぁ、ルード。少し場所を借りているよ」
軽い。
……軽すぎる。
「……いつから、こちらに?」
「そうだな――小一時間、といったところかな」
「小一時間!?」
キドが小声で叫ぶ。
ラミアがぱっと振り向く。
「ルードお兄様、先ほどフランお兄様が突然いらして」
にこにこしている。
幸せそうな笑みだった。
「お兄様が二人揃うと、前にお名前を付けないとわかりませんね」
ふふ、と笑う。
その無邪気さに対し、ルードとキドの顔色は悪化。
「……何故、こちらに」
ルードが慎重に問う。
皇太子は涼しい顔で答える。
「隣国からの帰途でね。少し寄らせてもらったよ」
ルードが慎重に言う。
「……ご不便ではありませんか?」
皇太子が微笑む。
「迷惑、だったかな?」
ルード、即座に。
「いえ光栄です」
(迷惑です)
心の声が滲む。
「それは良かった。少し時間ができてね」
嫌な予感がした。
「――せっかくだ。しばらく滞在させてもらおうか」
「……は?」
「まぁ!」
ラミア、純粋に喜ぶ。
キド、遠い目。
ルード、静かに絶望。
「ところで」
ルードが視線をずらす。
「お前はそこで何をしている、ロエル」
そこには。
当たり前のように座っているロエル。
満面の笑み。
距離が、近い。
近すぎる。
「お誘いいただいただけですよ」
爽やか。
爽やかすぎる。
皇太子が軽く肩をすくめる。
「私が声をかけたんだ。正門のところで見かけてね」
「……報告は?」
キドの声が低い。
ロエルはにこり。
「お茶が先だった」
(後で説教ですよ!)
キド、心の中で決定。
それにしても。
ロエルは妙に機嫌が良い。
皇太子の話に素直に笑い、自然に相槌を打つ。
距離が、近い。
「……」
ルードの眉間に皺。
キド、小声。
「態度、違いませんか」
「違うな」
第二皇子がいたら暴れている。
そのレベルで違う。
皇太子がふと首を傾ける。
「君、面白いな」
「殿下も」
ロエル、即答。
「何がかな?」
「雰囲気が似ている」
「誰に?」
「ラミアに」
沈黙。
キド、凍る。
ルード、心臓が止まりかける。
皇太子は一瞬だけ目を細め、そして笑った。
「……それは、悪くない例えだな」
「ですよね」
普通に会話が成立している。
(何故だ)
⸻
皇太子が立ち上がる。
「さて、客室はどちらになるのかな?」
(今決まったばかりですよね!?)
ルードの理性が悲鳴を上げる。
「……すぐに準備いたします。キド」
「……はい」
キドの背中が丸い。
完全に敗北した人の背中だった。
ガゼボに残る三人。
楽しそうに話すラミア。
柔らかく応じる皇太子。
そして。
その二人を満面の笑みで見つめるロエル。
完全に懐いている。
「……何故だ」
ルードはひとり、低く呟いた。
夏の庭園は、やけに穏やかだった。
だが公爵家の平穏は、確実に崩れ始めている。
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