第68話 Return Alive
理想か、現実か。
翌朝。
訓練場には、まだ人の少ない時間特有の静けさが残っていた。
昨夜までの喧騒が嘘のように、空気は澄み、朝露を含んだ土の匂いがわずかに立ち上っている。
早くから来ていた数名の騎士が、黙々と木剣の点検をしていた。
刃を布で拭く音、革具を締め直す音――どれも小さく、落ち着いている。
だが、その表情はどこか柔らかい。
「……腕、もう大丈夫か?」
「正直きついです」
「俺もだ。殿下、本気でやらせるんだもんな……」
声を潜めて交わされる会話には、
先日まであったぎこちなさは、もう残っていなかった。
公爵家の騎士と皇室騎士が、同じ桶の水を使い、同じ布で武具を拭いている。
特別なやり取りをするわけでもない。
だが、それが自然に成立していること自体が、先日までとは違っていた。
やがて人が増え始め、訓練場に足音が広がる。
号令を待つ空気。
整列前の、わずかな緩み。
その中で――
キドは一人、全体を見渡していた。
(……空気は悪くない)
統制はまだ甘い。
だが、反発は消えている。
騎士団として形になるには、むしろここからだった。
そのとき。
背中に、はっきりとした視線を感じた。
(……ああ)
振り返らなくても分かる。
(来たな)
遠くから、じっとした視線を感じた。
(……来るよな?)
嫌な予感がする。
(目線ずっと俺だし)
訓練場の端。
騎士たちが談笑している中、
ただ一人だけ、空気の温度が違う。
セディは視線をキドに固定したまま、ゆっくりと歩いてくる。
逸らさない。
瞬きも少ない。
(俺、何かしたかな……?)
思い返す。
一昨日。
昨日。
今朝。
(……いや、してないはずだ)
一瞬、第二皇子の顔が浮かぶ。
(あれは殿下が悪い)
即座に責任を切り離す。
だが、セディは止まらない。
(ああ、これ逃げたら余計まずいな)
キドは小さく息を吸った。
(胃が痛い)
背筋を伸ばす。
表情を整える。
――騎士団長として応じる。
「……騎士団長殿」
低く、落ち着いた声だった。
「昨日の訓練ですが――あれでは騎士は育ちません」
直球だった。
キドは一拍置いてから応じる。
「……そうですか」
否定も、反発もせず。
セディの眉がわずかに動いた。
「受け流すことばかり教えてどうするのです」
「踏み込ませなければ、戦場では勝てません」
周囲ではまだ笑い声が残っている。
だが、この場だけ空気が変わっていた。
キドは視線を逸らさない。
「勝たせる訓練はしてません」
「……では?」
「生きて帰還させる訓練です」
短く、はっきりと。
わずかな沈黙が落ちた。
風が抜ける。
セディは静かに言う。
「それは理想論です」
「違います」
キドは一歩だけ距離を詰めた。
威圧ではない。
逃げないという意思表示だった。
「理想は、“死なないこと”です」
セディの視線が鋭くなる。
「再現性に欠けます」
「その通りです」
即答だった。
「貴方にしか出来ない動きは、技術とは呼べません」
「ええ、そうでしょう」
一切の虚勢がない。
「それで騎士団を率いるおつもりですか?」
キドは一度だけ、息を吐いた。
「――生きて帰らせるつもりです」
声は変わらない。
だが、その奥にわずかな熱が混じる。
「勝てばいいわけではありません。
武勲を立てればいいわけでもありません」
一瞬、言葉が止まる。
「……それで死んだら、意味がない」
「俺は、英雄を作るつもりはありません」
「隊を、生きて戻す。
それが団長の役目です」
静かに言い切る。
沈黙が落ちた。
遠くではまだ騎士たちが笑っている。
だがここには届かない。
セディはキドを見たまま動かない。
否定も、肯定もない。
ただ、視線だけが僅かに変わっていた。
試すものから、
測るものへ。
キドはそれを感じながらも、何も言わない。
(……胃、持つかな)
小さく、誰にも聞こえない吐息が漏れた。
風が、二人の間を通り抜けた。
お読みいただきありがとうございます。




