第38話 静かな午後の出来事
この回では、ユアン嬢が再び公爵城を訪れます。
目的は公爵――ではなく、皇女。
なお、このあと
令嬢の恋愛講義が始まります。
公爵城、正門前。
重厚な門の前に、見慣れた意匠の馬車が止まった。
御者が扉を開くと、宝石のように濃い色合いのドレスに身を包んだユアンが優雅に降り立つ。陽光を受け、髪飾りがきらりと瞬いた。
「……何?」
その報告を受けた瞬間、ルードは思わず声を荒げていた。
「ユアン嬢が、また来たのか?」
半ば駆けるように、正門へと向かう。
一方、騎士団の訓練場では、木剣の打ち合う乾いた音が響いていた。
その中で、キドはちらりと視線を正門の方へ投げる。
(今日はルード様がいらっしゃる。……知らないふりをしよう)
そう思い、すぐに視線を前へ戻す。
(俺は団長だし、忙しいし。
それに、ロエル様から目を離したら、何をしでかすかわからないし)
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。
(そうだ。仕方ない。
これは任務だ。任務……)
そうして、キドは再び訓練の指示へと声を張り上げた。
その頃、ユアンはすでに玄関へと歩みを進めていた。
「ユアン嬢」
背後から呼び止められ、立ち止まる。
振り返れば、息を整えきれないままのルードが立っていた。
「あら、ルード様。ごきげんよう」
優雅に一礼する。
「今日は一体、どのような――」
言いかけたルードを、ユアンは涼しい笑みで遮った。
「あら。私がいつも、ルード様にお会いするためだけに来ているとでも思っていらっしゃるの?」
小首をかしげ、少しだけ目を細める。
「……自意識過剰、ですわね」
「……!」
ルードは固まった。
「……では、本日はこの城に何の用なのだ?」
絞り出すように尋ねる。
「本日は、皇女殿下とお約束しておりますの」
「……?」
「そんな話は、聞いていない」
「先日、いつでもお越しくださいと仰っていただきましたわ。
それに、この数日はご公務もないと。ですから、伺いましたの」
「……」
ルードは言葉を失った。
「本日は、ルード様にご用はございませんの。
もう、行ってもよろしいかしら?」
「あ……ああ。
……では、せめてエスコートを」
差し出された腕に、ユアンは一瞬だけ目を伏せ、素直に手を添えた。
「お気遣い、痛み入りますわ」
その頬は、わずかに桜色に染まっていた。
一方のルードは、胸の奥に生じた得体の知れない不安に、言い知れぬ戸惑いを覚えていた。
(ユアン嬢が……ラミアに?
大丈夫なのか……?)
皇女殿下私室前。
ユアンの従者が控えめに扉を叩き、来訪を告げる。
「ルード様、こちらで結構ですわ」
「……しかし」
扉が開き、ラミアが姿を現した。
「まあ。ユアン様。来てくださったのですね。どうぞ、お入りください」
花がほころぶような笑顔で迎える。
「ラミア……」
思わず声をかけるルードに、ユアンはちらりと視線を流した。
「ここからは、私たち令嬢同士のお話ですの。
無粋な真似は、なさらないでいただけて?」
ルードはラミアを見る。
その様子に気づいたラミアは、くすりと笑った。
「大丈夫ですよ、お兄様」
穏やかな声だった。
「……そうか」
名残惜しそうに頷き、ルードはその場を後にする。
私室の応接スペース。
柔らかな光の中、二人は向かい合って腰を下ろした。
「お越しくださり、ありがとうございます」
「ええ」
差し出された茶を口に運びながら、ユアンはゆったりと答える。
「たまには、駆け引きも必要ですから。お気になさらないで」
「……?」
「駆け引き、ですか?」
ラミアは不思議そうに首を傾げる。
「ルード様は、私の好意が常に自分に向いていると思っていらっしゃいますの。
ですから――少しだけ、焦っていただきたいのです」
「はぁ……」
ラミアは、ぽかんと口を開けたまま、首を傾げる。
「……?」
その様子に、ユアンのこめかみがぴくりと動いた。
「……ですから」
少し身を乗り出し、指を軽く立てる。
「ある日、仲が良いと思っていた方に、
『もしかして、嫌われているのかしら』と思ったら――どう思われます?」
「……?」
なおも分かっていない顔。
ユアンは、ついに堪えきれず、半歩前へ。
「嫌ではありませんの!?
胸が、こう……きゅっとしません!?
落ち着かなくなったり、眠れなくなったり、妙にその方のことばかり考えてしまったり!!」
「……!」
急に熱量が上がり、ラミアは思わず目を瞬かせる。
「……それは……嫌、ですね……」
伏し目がちに、小さく答える。
「でしょう!?」
ユアンは勢いよく頷いた。
「そういう感情が、恋の始まりですの!」
「……こ、恋……」
ラミアは、どこか遠いものを見るような目になる。
その様子に、ユアンはふっと息を吐き、少し照れたように視線を逸らした。
「……ですから」
咳払いひとつ。
「そんなことだろうと思って、皇女殿下に蔵書を持って参りましたの」
「蔵書……ですか?」
合図を受け、女官が数冊の本をテーブルに並べる。
淡い装丁、繊細な挿絵、恋物語と一目でわかる表紙。
「すべて、私のお気に入りですわ。
令嬢が恋をして、悩んで、すれ違って、最後には愛されて――幸せになるお話ばかり」
頬を少し染め、楽しそうに続ける。
「皇女殿下にも、ぜひ読んでいただきたくて。
もし、お気に召したら……感想を語り合えたら嬉しいですわ」
「まあ……」
ラミアは、ぱっと表情を明るくする。
「ありがとうございます。ぜひ、読ませていただきますね」
その素直な笑顔に、ユアンは一瞬だけ言葉に詰まり、わずかに視線を逸らした。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
しばらく、二人はそれぞれの本に目を落とす。
(……?)
何度も表紙と中身を見比べる。
(……何なんですの、この本)
ページをめくる手が、ぴたりと止まる。
(どこの国の歴史……?
英雄譚……?
……いえ、恋物語……?)
首を傾げ、表紙と中身を何度も見比べる。
(……題名と内容、合っております……?)
さらに数ページ読み進め、眉間にしわが寄る。
(年代も地理もめちゃくちゃ……
……え、竜?
……空を飛ぶ馬?)
一度、本を閉じる。
そっと深呼吸。
(……落ち着きましょう)
もう一度、最初から読み直し――
(……なるほど)
(これは……)
(…………)
(……完全に、お伽話ですわね)
こめかみに、じわりと汗が滲む。
(……皇女殿下の教育、一体どうなって――)
思わず顔を上げかけた、その瞬間。
ぽた。
ぽた。
テーブルの上に、透明な雫が落ちた。
「……え……」
ユアンは言葉を失う。
女官も、息を呑んだ。
ラミアの頬を、静かに涙が伝っている。
本から目を離さぬまま、表情を動かさず、ただ涙だけが零れ落ちていく。
「……皇女、殿下?」
かすれた声で呼びかける。
はっとしたように、ラミアは顔を上げた。
慌てて涙を拭い、いつもの穏やかな微笑みに戻る。
「……とても、素敵な本ですね」
その笑顔の奥に宿る感情を、ユアンはまだ知らなかった。
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