旅の拾い唄 結 殻と中身
三十の殻を、並べ終えた。
清書というのは妙な仕事で、道の上では見えなかったものが、机の上で見えてくる。唄を拾っていた四十年、私は一つずつの唄しか見ていなかったのだと思う。手控えの山を崩して並べ直し、北の唄の隣に南の唄を置いてみて、はじめて気づいたことがいくつもある。
たいていの気づきには、種明かしがつく。労働の唄がどの土地でも似た骨組みなのは、仕事のほうが似ているからだ。網も橇も麻も、引くか、押すか、打つかしかない。息を揃える工夫は、土地が違っても同じ形に行き着く。遊び唄が土地ごとにてんでばらばらなのも、道理といえば道理で、遊びには揃えなければならない息がない。ここまでは、説明がつく。
ひとつだけ、説明のつかないことが残った。
夜の唄のことである。
文句は、土地ごとに違う。北のねんね唄は眠らない子を少し脅かすし、東の星数えは夜に子守を頼む。王都の刷り物は祈りの灯で夜を防ぎ、寝間の変え文句は夜をふとんにする。まるで違う。ところが節だけは、どの土地でも、夜の唄はやさしいのだ。文句が怖くても、節はやさしい。脅かす文句にすら、節は掌を添えている。昼の唄はそうではない。昼の節には、勇ましいのも、意地の悪いのも、けたたましいのも、土地の数だけある。夜の唄にだけ、例外を私は一つも知らない。四十年で、一つもだ。
互いに行き来のない土地同士である。言葉が半分しか通じない里もある。誰かが教えて回ったのでないことは、私の足が知っている。教えて回るには、この世界は広すぎる。
種明かしを、いくつか試してはみた。眠らせるための唄だからやさしいのは当たり前だ、というのがいちばん手堅い。だが留守唄は子を眠らせる唄ではないし、脅かし文句のねんね唄は、文句のほうに眠らせる気がない。当たり前で片づけるには、そろいすぎている。
分からないことは分からないと書く。それが私の流儀だから、これも分からないままにしておく。ただ、書き取る側を長く務めた者として、一つだけ言い方を許してもらえるなら、こうだ。人は、夜に向かって歌うとき、声がやさしくなる。まるで夜のほうにも、聞いている誰かがいるかのように。
本書でいちばんやさしい一句も、夜の唄の中にある。どの一句かは書かない。読んだあなたが、それぞれに見つけてくれればいい。
殻は、拾い終えた。
中身の節は、いつか誰かが思い出す。それまでのあいだは夜が覚えていてくれると、私は勝手に決めている。
王国歴1633年 聖燭の月の終わりに
南の冬営地にて
サリ・ウィ・ロンネ




