北川辺の豪族化
北川辺の豪族化
紀元400年、5世紀に入った。
北川辺の豪族化は進んでいた。
族長の息子が近畿圏の姫と結ばれ、長となり、北川辺の長となり、差配するようになっていた。
大巫女は、その差配に何も言わない。
権現堂の巫女は自分の集落を差配して、ケヤキの集落も巫女とリーダーで独自に豪族化していた。
北川辺では、屋敷を作り直し、立派な長としての権威を見せつけることになった。
さらに、共闘で、二つの集落とも合わさり、大きな武力集団としての形が出来ていた。
豪族化が進み、世代が進みます。
北川辺の長に、近畿圏の姫が子を産んだ。
三殿台を通じて、伊勢に伝わり、北川辺の長を近畿圏の流れと認め、刀剣が贈られることになった。
刀剣は、近畿圏にとっては、属する証しとして、贈られた。
この時、関東には三浦半島からしか入れなかった。
北川辺の豪族は、権現堂やケヤキと共闘して狩りをする暮らしは変わらなかった。
効率も良いし、水田は、暮らしの助けになった。
ケヤキのリーダーは、狩りの計画を立て、権現堂の巫女は竹弓の威力で狩りを引っ張っていた。
近畿圏のつながりを示す刀剣も飾りにすぎず、縄文の理が続くのであった。
近畿圏の勢力はヤマト政権となり、関東への官道として東山道が成立し、信濃から碓氷峠を越えて上野、下野を通り、宇都宮は、下野になっていた。
この頃には、ヤマト政権を真似た古墳が造られ、各所で大きな土木工事が行われていた。
ヤマト政権にとっては、蝦夷の制圧に向けて動いていて、那須の部族を蝦夷として討伐または制圧に乗り出した。
この時、東山道が、大きな街道として整備され、討伐軍の移動にも使われることになった。
戦いの結果としの墳墓を宇都宮の百穴に見られ、那須は、ヤマト政権の北の先端と見なされ、ヤマト政権に組み込まかれることになった。
関東は豪族化により、古墳まで造ることになったが、東山道の整備により、武蔵国や下総国は、湿地帯が広がる無能な土地として、ヤマト政権から忘れられる事になった。
つまり、北川辺や千葉では、武蔵国として、下総国として、結果的に近畿圏の理に染まることなく、縄文の理が続くことになった。
湿地に覆われていた関東は、既に大きな陸地が広がり、豊かな大地に水田を構える事になった。
住民の狩りが大きな力となり、武力としての勢いも強い地域になったのである。
利根川の流れる大きな音の中、草原で駆け回る馬を見ることができた。
空は青く高く、白い雲がわずかに広がり、太陽の光を浴びて草原の草が緑に輝いていた。
こうして関東はヤマト政権から忘れられた土地として動くのであった。




