97話 今じゃない
ルナリアの圧は、もう待ってくれなかった。
指が上がる前に落ちる。
落ちたあとに次が来る。
一つを抜けても、戻る先が消える。
間合いも足場も、考えるための余白だけが先に削られていく。
俺は入る。
一歩。
二歩。
切る。
戻る。
その形自体は、まだ残っていた。
だが、残っているだけだ。
余裕はない。
さっきまでなら一拍あったはずの抜けが、もう半拍しか残っていない。
凛が左で細剣を返す。
雪那の氷は足場の縁を繋ぐだけで精一杯だ。
ひなたは大鎌を構えたまま、完全に後手へ回っている。
三人とも戦えていないわけじゃない。
だが全員、攻める余力を失っていた。
次の圧が来る。
俺は踏み込む。
右から浅く入る。
一歩目。
二歩目。
そこで一瞬だけ、頭の奥にさっきの感覚が触れた。
この並び。
この呼吸。
この遅さ。
足を、わずかに止めかける。
その一拍で終わった。
圧が想定より早く落ちる。
俺は反射で切るが間に合わない。
左脇を重さが掠め、身体ごと外へ弾かれた。
息が詰まる。
石床を転がり、崩れた縁の手前で短剣を突き立てて止まる。
ひなたが息を呑む。
「黒崎さん!」
浅い。
だが軽くはない。
脇腹の奥まで鈍い痛みが入ってくる。
凛がすぐに前へ出る。
俺の戻り先を塞いでいた圧の流れを、自分に寄せる形で細剣を差し込む。
雪那の氷がその足元へ走り、ひなたが崩れた石片を蹴って俺の方へ足場を寄せた。
三人の動きで、どうにか崩壊だけは止まる。
俺は立ち上がる。
呼吸が浅い。
今のは完全に俺のミスだった。
使おうとした。
そこまで言葉にしなくても、自分で分かる。
さっき掴みかけたものを、今この場でなぞろうとした。
その意識が入った瞬間、足が止まった。
今じゃない。
そう理解するより早く、次が落ちる。
広い圧だ。
凛が避ける。
雪那が一枚だけ氷壁を立てる。
壁は持たない。
ひなたが後ろへ下がる。
そこへ浅い二段目が走る。
「ひなた、右!」
俺が叫ぶ。
ひなたは反応する。
だが完全には避けきれず、大鎌の柄ごと圧に擦られる。
金属が嫌な音を立て、ひなたの手が大きく弾かれた。
「っ……!」
大鎌が半歩ぶん外へ流れる。
拾う動きが遅れる。
その一瞬で、次の圧がひなたへ寄る。
俺は踏み込む。
今度は迷わない。
一歩。
二歩。
ひなたの肩を掴んで引く。
間に合う。
だが、引いた先に足場がない。
雪那の氷が差し込まれる。
遅い。
薄い。
それでも、ひなたの体重を一瞬だけ乗せるには足りる。
ひなたは落ちない。
その代わり、雪那の足元の氷がまとめて砕けた。
雪那が一歩下がる。
顔色が悪い。
氷を出す速度も、明らかに落ちていた。
凛が低く言う。
「雪那、下がって」
「下がれるならそうしてるわ」
短い返答のあと、雪那はさらに薄い氷を一枚だけ出す。
無理をしているのが分かる。
だが、誰も止められない。
止めた瞬間、足場そのものが消える。
ルナリアは静かにこちらを見ていた。
虚ろな目の奥で、こっちの綻びだけを拾っているみたいだった。
「焦るのう」
その声と同時に、圧が連続で落ちる。
一点。
広域。
細い二段目。
間を空けない。
避けるたびに次が来る。
考える暇を与えない。
俺は踏み込むより、戻る回数の方が増えていた。
凛のカバーは露骨に増え、雪那の氷は一回ごとに薄くなる。
ひなたは攻撃へ転じる隙すらない。
戦況が悪い。
悪いどころか、押し切られ始めている。
それでも頭の奥には、さっきの感覚だけが残っていた。
あの形なら、何かが起きる。
だが、ここでそれを探す余裕はない。
探そうとする一拍で、今みたいに誰かが死ぬ位置へ入る。
ルナリアの指先がわずかに揺れる。
次は凛だ。
分かる。
それでも遅い。
俺は踏み込む。
凛も避ける。
その避け先を潰すように、二つ目の圧が寄る。
まずい。
俺はさらに一歩足す。
痛みが脇腹を引く。
動きが鈍る。
それでも凛の肩へ手を伸ばす。
届く。
押す。
凛の身体は圧の外へ流れる。
その代わり、俺の足元が沈んだ。
雪那の氷が来ない。
見なくても分かった。
もう足りない。
そこへひなたが大鎌の柄を滑り込ませ、俺の身体を無理やり外へ弾いた。
圧が大鎌の刃先を掠め、火花みたいに破片が散る。
着地する。
全員の呼吸が荒い。
ひなたが歯を食いしばったまま言う。
「もう、余裕ないですよ……!」
「分かってる」
答えながら、短剣を握り直す。
余裕はない。
使えるかもしれないものはある。
だが、それを確かめる余白がない。
戦場そのものが、それを許さない。
凛が細剣を構え直し、短く言う。
「黒崎。今はやめて」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
見抜かれていた。
何をしようとしたかまでじゃない。
だが、踏み込みのあの一拍を凛は見ていた。
「……ああ」
短く返す。
今はやらない。
やれない。
ここで探れば終わる。
ルナリアの圧がまた膨らむ。
足場の欠けた縁が悲鳴みたいに軋む。
雪那の氷はもう白く濁っている。
ひなたの握りも鈍い。
凛の足運びも重い。
全員、限界が近い。
それでも戦うしかない。
俺は一歩目を置く。
二歩目で入る。
いつもの型を崩しすぎない。
だが、頭の奥だけは静かに別の形を探している。
次はまだ来ない。
だが遠くもない。
今じゃない。
けれど、このままでも終わる。
その二つに挟まれたまま、俺たちは次の圧を受けた。




