96話 あの形なら起きる
耳の奥で鳴っていた呼吸だけが、ゆっくり遠ざかった。
ひなたの足元は沈んでいる。
凛も雪那も同じ方向へ動いている。
俺も踏み込んでいる。
全部見えている。
全部間違っている。
そのはずなのに、頭の奥で別の感覚だけが引っかかった。
この並び。
この呼吸。
この遅さ。
どこかで一度、同じ形を踏んだ。
思い出そうとした瞬間、それも違うと分かる。
思い出すんじゃない。
揃えるんだ。
俺は息を吸う。
止める。
吐く。
一歩目を浅く置く。
二歩目で入る。
視線は上げない。
ひなたを見ない。
ルナリアの指先も追わない。
全部見たら遅れる。
それはもう分かっている。
分かっているのに、足はまだ届かない。
ひなたの足場は沈み続けている。
凛も雪那も助けに入っている。
このままなら終わる。
それでも、俺は一瞬だけ踏み込みを遅らせた。
普通ならやらない。
助けに行くなら、一歩でも早く動くべきだ。
それでも、今は違う。
呼吸。
足運び。
ずれたまま崩れない形。
失敗が一つに収束する位置。
それを、なぞる。
ひなたの肩が落ちる。
凛の細剣が届かない。
雪那の氷が割れる。
その全部が、さっき見た通りの順番で重なる。
来い。
心の中で、そう思った。
理由は分からない。
理屈も知らない。
ただ、この形なら起きるかもしれないとだけ知っている。
圧は落ちる。
何も起きない。
視界はそのままだ。
音も戻らない。
ひなたの足元は沈んだまま。
俺の指先は、まだ届かない。
違う。
足りない。
その認識だけが、冷たく残る。
足りないのは速さだけじゃない。
半歩の距離でもない。
並びは似ていた。
呼吸も近かった。
それでも、決定的な何かが噛み合っていない。
起きなかったという事実だけが、逆にはっきりとそこにあった。
俺は踏み込みを変える。
遅らせた足を戻す。
今度は最短でひなたへ向かう。
短剣を握ったまま手を伸ばす。
届かない。
あとわずかで触れる。
その距離が埋まらない。
そこへ凛が身体ごと割り込んだ。
細剣ではなく肩でひなたを弾く。
ひなたの身体が横へ流れる。
同時に雪那の氷が薄く噛み、崩れた足場の端を一瞬だけ持ち上げる。
二人とも無事ではない。
凛の肩口が圧に掠れ、雪那の氷は立てた瞬間に砕け散る。
それでも、ひなただけは落ちなかった。
俺は着地する。
浅い。
呼吸が乱れる。
今のは成功じゃない。
仲間が無理やり失敗の形を崩しただけだ。
ひなたが息を詰めたまま俺を見る。
「今、わざと……遅れました?」
返事ができない。
図星だった。
だが、説明できるほど分かっていない。
ただ、起きると思った。
それだけだ。
凛が傷んだ肩を押さえながら言う。
「黒崎、今のは何」
「……足りない」
口にしたのは、それだけだった。
雪那が短く息を吐く。
その視線だけが、一瞬だけ俺を捉えた。
踏み込みの遅れ。
わずかなズレ。
それを見逃すような目じゃない。
それでも、何も言わない。
ルナリアは静かに立ったまま、初めてわずかに首を傾けた。
虚ろな目のままなのに、その奥の何かだけがこちらを測っているみたいだった。
「妙なことをするのう」
その声で、さっきの感覚がさらに遠のく。
同じ形はもう崩れている。
同じ停止も戻らない。
一度きりの並びだったのか。
それとも、まだ何か足りないのか。
次の圧が落ちる。
俺は反射で入る。
一歩。
二歩。
切る。
戻る。
またいつもの戦闘へ戻っている。
足は動く。
型も崩れていない。
それでも、頭の奥だけがさっきの失敗に引っかかったままだ。
ひなたを助けるには足りなかった。
詰みの形も揃っていた。
なのに、起きなかった。
呼吸の位置か。
踏み込みの深さか。
止まった時間の長さか。
見ないままでいる長さか。
考えた瞬間に、全部が逃げる。
掴みかけたものほど、指の間から滑り落ちる。
それでも消えてはいない。
確かにある。
一度触れた手応えは、失敗したのに消えていない。
凛が低く言う。
「まだ終わってない」
「ああ」
短く返す。
終わっていない。
だが、ただ戦っているだけでもない。
今ので分かったことがある。
あの停止は偶然じゃない。
一度起きただけの幻じゃない。
少なくとも、触れられる形がある。
ただ、まだ届いていない。
そこまで、自分で持っていけていない。
俺は短剣を握り直す。
呼吸を落とす。
同じように入り、同じようには入らない。
その先で、さっきの並びだけを探す。
次の一歩は通る。
その先だけが、まだ遠い。
その先はまだ足りない。
次は、ただ詰むためじゃなく、掴むために入る。
それでも、初めて確信に近いものが残った。
あの形なら、何かが起きる。
まだ足りない。
だが、もう見失ってはいない。




