94話 間に合わない
ズレを含んだ踏み込みは、まだ通る。
一歩目を浅く。
二歩目で入る。
三歩目は届く時だけ伸ばし、無理なら切る。
そこへほんの少しだけ遅れや浅さを混ぜる。
その形で、俺は何度かルナリアへ届いていた。
短剣の切っ先が肩を裂く。
横髪を飛ばす。
衣装を削る。
浅いが、当たっている。
ルナリアの周囲へ走る圧も、前よりは読める。
凛は俺の戻る先だけを守り、雪那は崩れる足場を最低限だけ支え、ひなたは死角から来る浅い圧を声もなく指で示す。
四人の役割は噛み合っていた。
戦えている。
そう思えたのは、ほんの数手だけだった。
次の踏み込みで、短剣はまたルナリアの脇腹を掠めた。
手応えはある。
浅い布の裂ける感触も、刃先に残る。
それでも、傷が残らない。
血は滲む。
だが薄い。
次の瞬間には、その輪郭が重さに潰されるみたいに消えていく。
俺は一度引いた。
引きながら、さっきまで裂けていたはずの肩口を見る。
傷が消えたわけじゃない。
残ってはいる。
だが、浅すぎる。
積み重ならない。
ひなたが息を呑む。
「当たってるのに……」
凛が低く返す。
「足りてないわね」
その言い方は正しかった。
通る。
だが削れない。
少しずつ近づいている感覚はあるのに、終わりへ進んでいる感覚がない。
こっちだけが消耗していく。
ルナリアの指先が揺れる。
圧の落ち方が変わる。
前までは、俺の型へ合わせるように寄ってきていた。
今は違う。
ずれた踏み込みに対して、さらに半拍だけ遅らせてくる。
こちらの崩しを見て、向こうも崩してくる。
一歩目。
二歩目。
そこで、いつもより浅く切る。
通るはずだった。
圧が落ちる。
遅れていたはずの位置に、ぴたりと重さが来た。
俺は切る。
間に合う。
だが左の袖がまた裂け、皮膚を薄く持っていかれた。
対応している。
向こうは止まっていない。
こっちが掴んだ形を、その場で食ってくる。
雪那の氷が足場の端へ走る。
だが今度は一枚遅い。
崩落を止めきれず、俺の退路が半歩ぶん欠けた。
「っ……」
雪那が初めて、わずかに息を乱した。
魔力が落ちている。
氷の厚みが薄い。
立てる速度も少しだけ遅い。
凛もそれを見ていた。
細剣を返し、即座に俺の戻り先へ入る。
圧を正面から受けるつもりじゃない。
俺の足場だけを残すための位置だ。
そこへ細い圧が走る。
凛は避ける。
避けきる。
だが着地の瞬間、二つ目が来る。
「黒崎!」
俺は踏み込みを切って戻るはずだった足を逆へ出した。
いつもの型から外れる。
それでも、外した方が間に合うと分かった。
凛の肩を掴む。
引く。
二人が流れた一拍後、さっきまでいた場所が細く抉れた。
凛の頬に浅い赤い線が走る。
ひなたが顔色を変える。
「凛さん!」
「平気」
凛は即答した。
だが呼吸は重い。
カバーの回数が増えすぎている。
ひなたも限界が近い。
掌の傷はまだ塞がっていない。
大鎌を握るたび、微かに顔が歪む。
それでも前へは出ない。
出れば崩れると分かっているからだ。
雪那の氷は、もう戦場を作れない。
支えるだけで精一杯になっている。
足場の補強も、次の圧まで持てばいい方だった。
このまま続ければ、先に切れるのはこっちだ。
ルナリアへ届く。
だが浅い。
避けられる。
いや、正確には、こちらが深く入る前に形を変えられる。
最短でも間に合わない。
その感覚が、嫌にはっきりしてきていた。
俺は次の圧を見る。
この踏み込みなら通る。
この戻りなら間に合う。
この角度なら浅く切れる。
でも、その先がない。
切った後に足りない。
浅い一撃を何度重ねても、届く場所まで削れない。
誰かの補助が一拍ずれれば終わる。
その補助が、もう保たない。
また圧が来る。
ひなたの足場が先に沈むのが分かった。
次に雪那の氷が遅れる。
そのあとで凛が無理をする。
そう浮かぶ。
まだ起きていないのに、失敗の形だけが先に見える。
俺はひなたを先に引いた。
雪那の氷が半拍遅れる。
凛がその隙間を埋めるように入る。
そこへ圧が重なる。
分かっていたのに、全部は救えない。
凛の足元が沈む。
俺は踏み込む。
間に合わない。
その言葉が先に来る。
身体は動いている。
それでも足りない。
あと半歩が届かない。
雪那の氷が無理やり足場を持ち上げ、凛はそこでようやく体勢を逃がした。
助かった。
だが、助かっただけだ。
ひなたが声を震わせる。
「今の、完全に危なかったですよね……」
誰も否定しない。
危なかった。
次も同じように助かる保証はない。
むしろ、次はたぶん間に合わない。
ルナリアは静かに立ったまま、こちらを見ている。
虚ろな目の奥で、別の何かだけが薄く笑っていた。
「鈍いのう」
その一言に、反応する余裕もない。
鈍いのは事実だった。
こちらの動きは最適化されている。
ズレも受け入れている。
それでも遅い。
勝ち筋が見えないわけじゃない。
むしろ、どうすれば届くかは分かる。
分かるのに、そこまで保たない。
戦いが長引くほど不利になる。
それが、今ははっきりしていた。
俺は短剣を握り直す。
呼吸を落とす。
次の一歩もたぶん通る。
けれど、その先はまた足りない。
圧が来る。
足場が鳴る。
誰かの限界が近い。
その全部を見た瞬間、頭の奥で一つの感覚だけが残った。
間に合わない。




