86話 先に分かる
ひなたが息を呑む気配が、すぐ横で揺れた。
誰もすぐには動かなかった。
動けなかった、の方が近い。
目の前のルナリアは立っているだけだ。
武器も抜いていない。
構えもない。
それでも、前へ出るという当たり前の動作だけが、急に遠くなっていた。
俺は短剣を下げたまま、ルナリアを見る。
肩はわずかに揺れている。
呼吸も浅い。
意識が安定しているようには見えない。
だが、その不安定さと現れている圧が噛み合わない。
制御が崩れているはずなのに、俺たちを押し潰す力だけは切れなかった。
空気が重いわけじゃない。
空間そのものが沈んでいる。
息を吸うたび肺の内側に見えない蓋が落ち、膝の裏へ鈍い負荷が溜まる。
立っているだけで身体が勝手に低くなる。
ルナリアの瞳が、ゆっくりこちらへ向く。
「来ぬのか」
声は静かだった。
挑発にも聞こえる。
けれど感情の揺れは薄い。
返答を待っているようで、待っていない。
視線は俺たちに向いているのに、焦点だけがわずかに外れていた。
その口元が、遅れて動く。
「お主ら妾の敵かの? 容赦せぬぞ」
声は本人のものだ。
響きも同じだ。
なのに、その言葉だけが妙に浮いていた。
ひなたが奥歯を噛む。
怖がっている。
それでも足は止めない。
大鎌を構え、半歩だけ前へ出る。
「だったら、止めるしか――」
言い切る前に、床が沈んだ。
ひなたのいた位置だけが、真下へ押し込まれる。
砕ける音は遅れて来た。
先に石床が潰れ、あとから破片が跳ねる。
ひなたが反射で飛び退く。
だが着地の瞬間、次の足場も沈む。
逃げた先を読まれている。
凛が横から踏み込んだ。
細剣の切っ先ではなく、肩でひなたを弾く。
ひなたの身体が横へ流れる。
その一瞬後、さっきまでいた場所がまとめて潰れた。
「前に出ないで」
凛の声は低い。
ひなたもさすがに言い返さない。
顔色が変わっている。
半拍でも遅れていたら、足ごと持っていかれていた。
雪那の指先に氷が集まる。
薄い氷刃が数本、ルナリアの周囲へ走った。
狙いは本体じゃない。
進路の固定と、圧の流れの確認だ。
だが氷は届く前に砕けた。
何かに弾かれたわけじゃない。
内側へ入るほど圧が増し、形を保てなくなった。
細かい氷片が散り、そのまま下へ落ちる。
「……制圧領域」
雪那が短く言う。
「内側の圧が強い。踏み込むほど潰される」
凛がルナリアから目を離さず、小さく息を吐いた。
「重力の制御だと思う。でも、こんな戦い方じゃなかったわね」
ひなたが乱れた呼吸のまま返す。
「こんなの、戦い方っていうか……」
凛が続ける。
「ええ。雑すぎる。必要な場所だけを正確に潰してくる相手だった」
今のルナリアは違う。
狙いが粗い。
だが、その分だけ範囲が広い。
制御が崩れている。
それでも威力だけは落ちていない。
まともな読み合いが成立しない相手ほど厄介だ。
俺は一歩だけ前へ出た。
踏み込みの瞬間、足首から下が急に重くなる。
床へ縫いつけられたみたいに止まる。
無理に体重を乗せれば、膝から先に落ちる。
距離は遠くない。
短剣なら数歩で届く。
本来なら迷う間合いじゃない。
それでも今は、その数歩が致命的に遠い。
試す。
俺は真正面から入るのをやめ、左へ半身を切った。
歩幅を狭める。
一歩目は浅く、二歩目で加速する。
直線じゃなく、斜めから間合いへ滑り込む形だ。
ルナリアは動かない。
三歩目で、死ぬと分かった。
まだ何も起きていない。
それでも、このまま踏み込めば左脚から潰れる。
理由は分からない。
だが、その結果だけが先に浮いた。
俺は踏み込みを切った。
身体を逆へ流す。
直後、さっきまで左脚を置くはずだった地点が沈んだ。
石が丸く抉れ、圧し潰された破片が弾ける。
検証になった。
ルートを変えても駄目だ。
ひなたが息を呑む。
「今の、分かって避けましたよね」
「避けたんじゃない」
そう答えながら、俺はルナリアから目を切らない。
「入る前にやめた」
ルナリアの口元がわずかに歪む。
笑っているように見える。
だが、そこに温度はない。
「惜しかったのう」
言葉の意味は通る。
なのに噛み合っていない。
俺に向けているようで、別の誰かに喋っているみたいだった。
次の瞬間、圧が強まる。
肩が落ちる。
視界の端が暗くなる。
足場の継ぎ目にひびが走り、石の粉が浮き、そのまま押し潰されるように消えた。
今度は待たない。
凛が低く腰を落とす。
正面からじゃない。
斜めに走り、圧が集中する位置をずらして入るつもりだ。
動きとしては正しい。
だが三歩目で止まった。
片膝が落ちる。
床へ剣先を突き、無理やり姿勢を支える。
その頭上を、見えない圧が通った。
背後の石柱がめきりと曲がり、遅れて砕ける。
「っ……!」
凛が息を詰める。
雪那が即座に氷壁を一枚、凛の横へ立てた。
防御じゃない。
圧の通り道を読むための壁だ。
氷壁は半秒も持たなかった。
中央から軋み、縦に圧縮され、薄い板みたいに潰れて砕け散る。
「防げない」
雪那が言う。
「押し切られる」
ひなたが大鎌を握り直す。
震えは消えていない。
それでも前を見る。
「だったら、何回でも試すしかないです」
「駄目だ」
俺は即座に切る。
「同じでも変えても死ぬ」
ひなたが言葉を失う。
自分の声にも違和感があった。
断定が早すぎる。
けれど間違っていない。
正面は潰される。
斜めも潰される。
速度をずらしても間に合わない。
読み合いとして成立していない。
ルナリアが一歩、前へ出る。
たったそれだけで、圧の境界が押し広がった。
全員の足元が同時に軋む。
ひなたが後ろへ跳ぶ。
凛が横へ流れる。
雪那はその場で氷を踏み、足場を補強した。
俺だけが半歩、前へ出る。
圧が来る。
分かる。
落ちる。
その直前で止める。
まただ。
まだ起きていない失敗が、先に分かる。
踏み込めば死ぬ。
この距離なら届くはずなのに、そこまで辿り着く前に潰される。
短剣の間合いには入っている。
足りないのは距離じゃない。
そこまでの一秒だ。
俺は短く言う。
「近接はまだ無理だ」
ひなたが悔しそうに歯を食いしばる。
「まだって、いつならいけるんですか」
答えはない。
だが、今じゃないことだけは分かる。
ルナリアの指先が、ゆっくりひなたをなぞった。
嫌な予感が走る。
考えるより先に身体が動いた。
俺はひなたの腕を掴み、強引に引く。
ひなたが驚いた顔をする。
その一拍後、彼女の前方の床が沈んだ。
さっきまで立っていた足場が、音もなく押し潰される。
冷たいものが背中を走る。
今のは見てからじゃ間に合わない。
避けたんじゃない。
潰れる前提で動いたから間に合った。
凛が息を整えながら言う。
「黒崎、何が見えてるの」
「見えてない」
同じ答えになる。
「でも、次に潰れる場所だけは分かる」
口にした途端、それが少しだけ違うと分かった。
場所だけじゃない。
その先で誰が死ぬかまで、輪郭だけが浮かぶ。
ルナリアはそこで初めて、小さく笑った。
「よい。では次をやろう」
その声と同時に、足場全体が沈んだ。
一点じゃない。
面で来る。
逃げ道を残す圧じゃない。
俺はひなたを突き飛ばす。
凛が雪那の肩を押し、別方向へ散らす。
直後、さっきまで四人がいた足場の中央が丸ごと押し潰れた。
砕けた石が下へ落ちる。
その一部が途中で急に引かれ、壁へ叩きつけられる。
重力の向きまで安定していない。
着地したひなたの顔から血の気が引いていた。
「……今の、ちょっと遅れてたら」
凛が答えない。
雪那も黙ったまま、ルナリアだけを見ている。
もう全員分かっていた。
ここから先は、危険じゃない。
一度の判断ミスで終わる。
踏み込めば死ぬ。
逃げても潰される。
俺は短剣を握り直す。
指先の感覚を確かめる。
呼吸を落とす。
足場の傾き、圧の波、ルナリアの立ち位置。
見える情報だけなら十分だ。
それでも足りない。
考えて合わせる速度じゃ、もう遅い。
ルナリアの視線が、今度は凛へ向く。
次に誰を狙うか、分かってしまった。
間に合わない。
その言葉が先に浮かぶ。
まだ始まってもいないのに、失敗だけが先に見える。




