85話 抑えきれない
土精霊が崩れた瞬間、空域を隔てていた圧が消えた。
身体にまとわりついていた重さが抜ける。
肺が一気に空気を吸い込む。
さっきまで押し潰されていた感覚が、嘘みたいに消えた。
だが、楽になったという感覚は、すぐに違和感へ変わった。
軽い。
軽すぎる。
重さが消えたはずなのに、身体の芯だけが妙に沈んでいる。
俺は短剣を握り直し、中央へ向かった。
凛が先に来る。
雪那が続く。
ひなたが最後に飛び込んでくる。
四人が同じ足場に揃う。
ひなたが肩で息をしながら笑う。
「……やっと、合流ですね」
凛は応えない。
視線は中央に固定されたままだ。
雪那も同じだった。
氷糸を指先に集めたまま、微動だにしない。
俺も中央を見る。
精霊はいない。
火も風も水も土も、もう残っていない。
それでも、終わった気がしない。
中央に立つルナリアだけが、そこにいる。
見た目は変わっていない。
だが、何かが違う。
空気が静かすぎる。
さっきまでの戦闘の余韻が、どこにも残っていない。
音がない。
圧もない。
それなのに、近づくことを身体が拒んでいる。
ひなたが小さく言う。
「……終わり、ですよね?」
その問いに答える前に、ルナリアの肩が揺れた。
わずかに震える。
指先が胸元を掴む。
ゆっくりと顔が上がる。
目が開く。
焦点が戻る。
その瞬間だけ、空気が緩んだ。
凛が息を呑む。
「ルナリア……」
ルナリアの唇が動く。
かすれた声が漏れる。
「……来るな」
凛が一歩踏み出す。
俺は腕で止めた。
ここで近づく理由がない。
まだ判断できていない。
ルナリアは呼吸を乱しながら、こちらを見る。
視線が合う。
次の瞬間には外れる。
定まらない。
揺れている。
それでも、意識はある。
ルナリアは歯を食いしばる。
「ここから……離れよ」
その声は、はっきり本人のものだった。
雪那が静かに言う。
「抑制が消えた」
ルナリアの指が強く胸元を掴む。
爪が食い込む。
呼吸が乱れる。
その背後で、何かが蠢いた。
影じゃない。
輪郭でもない。
ただ、そこにいる。
重なっている。
ルナリアと同じ場所に、別の何かがいる。
ひなたの喉が鳴る。
「……これ、やばくないですか」
ルナリアは首を振る。
だが、その動きは途中で止まる。
力が抜ける。
その直後、身体の奥から別の動きが出てくる。
制御されていない。
押し出されている。
ルナリアの声が変わる。
「もう……抑えきれぬ」
その瞬間、空気が沈んだ。
音はない。
だが、全員の身体が同時に沈む。
肩に重さが乗る。
違う。
内側が潰れる。
肺が圧迫される。
呼吸が止まる。
膝が勝手に落ちる。
視界がわずかに暗くなる。
ひなたが小さく声を漏らす。
「……重っ……」
凛が低く言う。
「下がるわよ」
俺は頷く。
その判断より先に、嫌な予感が走った。
「下がれ」
全員が同時に距離を取る。
直後、さっきまで立っていた場所が沈んだ。
爆発はない。
衝撃もない。
ただ、押し潰された。
石が形を保ったまま砕ける。
音が遅れて響く。
そこにあったものが、まとめて押し込まれたみたいに消える。
凛が眉を寄せる。
「……重力」
ルナリアから目を離さないまま続ける。
「制御してる。けど……こんな粗いかけ方じゃなかった」
ひなたが息を整えながら言う。
「さっきの、範囲広すぎません?」
雪那が短く言う。
「精度がない。制御されていない」
それは正しかった。
さっきまでのルナリアは違った。
必要な場所だけを潰す。
踏み込みの瞬間を狙って、最短で殺す。
今のは違う。
雑だ。
だが、重い。
俺は一歩踏み出す。
その瞬間、膝が落ちた。
足が沈む。
踏み込めない。
力を入れる前に、潰される。
身体が止まる。
凛も同時に動く。
だが踏み込みきれない。
雪那の氷糸が伸びる。
途中で止まる。
圧に押されて進まない。
ひなたが横へ回る。
一歩目は動ける。
二歩目で崩れる。
「っ……!」
ひなたが体勢を崩す。
その直後、足元が沈む。
凛が即座に引いた。
ひなたの身体が横へ流れる。
一瞬遅れて、そこが潰れた。
間に合っていなければ終わっていた。
凛が低く言う。
「近づけない」
俺は頷く。
距離はある。
だが問題はそこじゃない。
一定以上近づくと、踏み込みが成立しない。
足が出ない。
出ても、潰される。
ルナリアは動いていない。
立っているだけだ。
それでも、こちらの行動だけが制限される。
雪那が短く言う。
「侵入不可。制圧領域」
ひなたが息を吐く。
「こんなの、どうやって……」
俺はルナリアを見る。
呼吸が乱れている。
視線は定まっていない。
身体も揺れている。
制御できていない。
それでも、この圧は維持されている。
つまり――
「無意識で出してる」
凛がわずかに目を細める。
「最悪ね」
ルナリアの唇が歪む。
笑っているように見える。
だが、感情はない。
「近づけぬであろう」
声だけが違う。
中身が変わっている。
圧がまた強まる。
空気が沈む。
視界が暗くなる。
このまま無理に踏み込めば、潰される。
一度でも判断を誤れば終わる。
俺は短剣を構えたまま、低く言う。
「……次に入ったら、誰かが死ぬ」




