79話 vs風精霊①
火が消えたはずなのに、空気は少しも軽くならなかった。
むしろ、景色の輪郭だけが妙に揺れている。
重力障壁の向こう。
薄い人型が、静かにそこに立っていた。
輪郭は曖昧なのに、形だけは人に見える。
風精霊。
白石凛は短剣を逆手に持ち直す。
息を整える。
火精霊が落ちたなら、次は自分の番だと分かっていた。
近い。
届く距離だ。
踏み込み一つで首を取れる。
そう判断した瞬間には、もう床を蹴っていた。
雷歩で一気に距離を詰める。
短剣が風精霊の喉元を裂く。
そう見えた。
感触がない。
刃は空を切っていない。
狙いも軌道も間違っていない。
なのに、手応えだけが消えていた。
「……当たってる」
凛は着地と同時に振り向く。
風精霊は、まだ正面にいる。
位置が変わったようには見えない。
おかしい。
凛は間を置かない。
二歩目。
今度は胸を狙う。
雷歩でさらに加速し、至近距離から雷閃を叩き込む。
避けられるはずがない。
だがまた外れた。
外れたという感覚すら、ずれている。
次の瞬間、凛の肩が裂けた。
横から来た。
見えていない。
いや、見えていたはずなのに、避ける動きが一瞬遅れた。
血が散る。
凛は低く舌打ちして距離を切る。
床を滑る靴裏が、さっきより少し重い。
火精霊が落ちたせいで、逆に空間の歪みが増したような感覚があった。
視界の端にカメラが滑り込む。
短く凛を捉え、遅れてコメントが流れる。
「当たってるだろ!?」
「なんで無傷なんだよ」
「ラグってない?」
凛は無視する。
呼吸を浅くして、風精霊だけを見る。
輪郭は揺れている。
だが、目で追えない速さじゃない。
むしろ遅い。
だから余計に気持ちが悪い。
見えている相手に、届かない。
凛は姿勢を落とす。
正面から入るのをやめる。
斜め。
低く。
足を払う軌道。
雷歩で低空を滑るように接近し、短剣を走らせる。
また感触がない。
同時に、背中に衝撃。
呼吸が詰まる。
前に吹き飛ぶ。
受け身を取るが、着地が少しずれる。
想定した位置に足がない。
凛は初めて眉を寄せる。
自分の身体感覚が、微妙に信用できない。
踏み込んだ場所。
振った角度。
着地した重心。
全部が、ほんの少しずつ噛み合わない。
遠くで黒崎悠斗の声が聞こえた気がした。
障壁越しで、内容までは拾えない。
それでも仲間も同じように押されていると分かる。
ここで止まれば終わる。
凛は雷を流す。
短剣だけじゃない。
足へ、肩へ、背骨へ。
反応速度を引き上げる。
雷歩を連続使用する。
残光が重なる。
一直線ではない。
横、縦、逆袈裟。
見えない速度で斬撃を重ねる。
全部、ずれる。
「……合ってるはず」
速くなるほど駄目だった。
当てに行く意識が強いほど、最後の一瞬で位置が噛み合わない。
風精霊は動いていない。
なのに、そこにいたはずの“今”だけが滑っていく。
凛の脇腹に風刃が入る。
浅い。
だが続けて二撃、三撃。
避けたつもりの場所へ、遅れて痛みが来る。
連撃の後に、凛は大きく下がった。
胸が上下する。
速さが武器のはずなのに、速さそのものが裏目に回っている。
カメラがまだ残っていた。
凛の荒い呼吸まで拾っている。
コメントが荒れる。
「凛どうした!?」
「速いのに全部外れてる」
「位置がおかしいって!」
凛は目を細める。
違う。
位置だけじゃない。
見た場所に入っている。
狙いも合っている。
なのに、当たる瞬間だけ外れる。
それなら、ずれているのは場所じゃない。
「位置じゃない」
凛は短剣を下げた。
初めて、目で追うのをやめる。
見るのは輪郭じゃない。
空気の流れ。
肌を撫でる圧。
遅れて鳴る裂風音。
踏み込みの前に生まれる微かな乱れ。
呼吸を合わせる。
待つ。
風精霊が揺れる。
右だと感じる。
凛は反射で左へ半歩だけずれる。
頬の横を風刃が抜けた。
今のは合っている。
凛はそのまま踏み込む。
だが深く入らない。
見えた位置へは斬らない。
ずれるなら、その先を切る。
短剣を走らせる。
浅い。
だが初めて、風を裂いた感触が手に残る。
風精霊の輪郭が一瞬だけ歪んだ。
次の瞬間、凛の太腿が裂ける。
まだ足りない。
だが今のは無意味じゃない。
凛は後ろへ跳ぶ。
着地の瞬間、床が遠いと感じた。
実際には近い。
感覚と結果がずれている。
そういうことか。
完全には分からない。
だが、見えている位置を信じると外れる。
見えている“今”を信じると遅れる。
風精霊は、認識の方をずらしている。
カメラが離れかける。
その直前、コメントが一つだけ残った。
「凛、見ない方が当たってる?」
凛は小さく笑う。
皮肉みたいな答えだった。
だが間違っていない。
短剣を握り直す。
血が柄を滑る。
それでも手放さない。
まだ読めない。
だが、入口には触れた。
風精霊の輪郭が揺れる。
一つだったはずの姿が、二つ、三つにぶれる。
次はもっと崩れる。
凛は腰を落とす。
目ではなく、身体ごと待つ。
「……まだ、合わない」




