80話 vs風精霊②
風精霊はそこにいる。
見えている。
距離も分かる。
動きも遅い。
なのに、届かない。
その事実だけが変わらない。
白石凛は呼吸を浅く保ったまま、短剣を握り直す。
血で滑る柄を、指に食い込ませる。
踏み込めば当たる距離だ。
それは間違っていない。
だが、その「間違っていない」が全部外れる。
「……全部ズレる」
凛は低く呟く。
視線は落とさない。
だが、輪郭を追うのをやめるにはまだ早い。
風精霊が揺れる。
右にいる。
そう見える。
凛は半拍だけ遅らせる。
だが、その瞬間にはもう遅れていた。
風刃が肩を裂く。
浅い。
それでも鋭い。
見てからでは間に合わない。
凛は一歩だけ下がる。
距離を取る。
整える時間を作る。
だが、その一歩すらズレる。
踏んだ位置と、身体の重心が噛み合わない。
床を蹴った感覚と、着地の位置が一致しない。
足裏に残る違和感が消えない。
「……まだズレる」
息がわずかに荒くなる。
思考は冷静なままなのに、身体だけが追いついていない。
再び踏み込む。
雷歩を連続使用する。
加速のたびに、身体がわずかに流れる。
本来の着地点より、半歩ずれる。
補正が追いつかない。
残光が重なる。
正面、側面、背後。
三方向から同時に斬撃を叩き込む。
全部外れる。
空を切っていない。
当たる位置に入っている。
なのに、当たる瞬間だけそこにいない。
次の瞬間、凛の腹に衝撃が走った。
空気が押し潰される。
呼吸が抜ける。
身体が浮いた。
床へ叩きつけられる。
遅れて痛みが来る。
肺が空気を拒む。
息を吸おうとしても入らない。
一瞬、視界が暗くなる。
起き上がる。
遅れる。
ほんのわずか。
それだけで、次の一撃が重なる。
太腿を裂かれる。
血が温かく流れる。
踏み込みに違和感が残る。
動きが鈍る。
凛は歯を食いしばる。
ここで崩れるわけにはいかない。
風精霊は動いていない。
だが、凛だけが一方的に削られている。
このまま続ければ先に折れる。
視界の端にカメラが滑り込む。
一瞬だけ凛を捉える。
コメントが流れる。
「今のやばい」
「完全に読まれてる」
「凛、押されてる」
凛はそれを見ない。
見る余裕がない。
思考を切り替える。
ここで終わるわけにはいかない。
見てから動く。
それが通用しない。
なら、別の基準がいる。
凛は一度、目を細めた。
完全には閉じない。
だが、輪郭への依存を切る。
感じる。
空気の流れ。
肌に触れる圧。
遅れて鳴る裂風音。
踏み込みの前に生まれる微かな乱れ。
視覚より、わずかに早い情報。
そこに合わせる。
風精霊が動く。
右。
違う。
今見えている右は、もう遅い。
その一歩先。
凛は左へ踏み込む。
迷わない。
予測で動く。
風刃が頬をかすめた。
紙一重。
だが避けた。
今のは合っている。
凛はそのまま前へ出る。
だが、見えた位置は斬らない。
ズレるなら、その先を切る。
短剣を振る。
浅い。
だが、確かに触れた。
風を裂いた感触が残る。
風精霊の輪郭が、わずかに乱れる。
だが次の瞬間、凛の足が裂けた。
踏み込みが半歩早い。
まだ合っていない。
凛は後ろへ跳ぶ。
着地。
今度はズレない。
いや、ズレを先に含めて動いた。
理解したわけじゃない。
だが、癖が見え始めている。
「……今じゃない」
見えている今が遅れている。
なら、見てから動くのは駄目だ。
視覚を信用しすぎると負ける。
速さに頼るだけでも届かない。
必要なのは、早さじゃない。
先置きだ。
風精霊が揺れる。
一つだった輪郭が二つ、三つへ滲む。
だが全部が同じじゃない。
裂風音の遅れ方。
圧の寄り方。
揺れの深さ。
本体だけが、一拍遅れて風を引く。
そこが癖だ。
凛は腰を落とす。
呼吸を揃える。
短剣を握る指に力を込める。
足の痛みが残る。
だが踏み込みは止めない。
ここで引けば終わる。
カメラがもう一度だけ戻る。
凛の横顔を捉える。
コメントが流れた。
「動かない?」
「いや、待ってる」
「なんか見てないぞ」
凛はもう見ていない。
聞いている。
感じている。
風が鳴る。
右。
違う。
その先。
凛は雷歩を連続使用する。
だが軌道は単純じゃない。
直線ではない。
一歩先。
さらにその先。
未来位置へ、先回りする。
風精霊の輪郭がぶれる。
追いついていない。
初めて、凛の動きに対してズレる。
凛は止まらない。
さらに二歩。
左。
右。
斜め前。
風精霊の揺れに、無理やり先回りする。
見えた位置へではない。
ずれたあとにいる位置へ、先に刃を置く。
短剣が浅く通る。
次も浅い。
三撃目で、輪郭が大きく歪んだ。
まだ足りない。
だが崩れ始めている。
風精霊の反撃が来る。
頬。
肩。
脇腹。
三連の風刃。
凛は二つを避け、一つを浅く受ける。
血が散る。
膝がわずかに落ちる。
踏み込みが一瞬だけ遅れる。
それでも止まらない。
ここで引けば、また見失う。
今だけは、流れが見えている。
凛は踏み込みの角度を変える。
さっきより深く。
だが最短ではない。
本体が戻る線。
ズレの収束点。
そこへ先に刃を置く。
風精霊がぶれる。
二つ。
三つ。
四つ。
偽物が増えても、風の引き方は一つだけだ。
凛は短剣を逆手に持ち替える。
雷を収束させる。
狙う位置は決まっている。
「……ここに戻る」
息を止める。
痛みが残る。
血が流れている。
それでも、動きは止めない。
一瞬だけ、世界が静かになる。
踏み込む。
痛みを無視する。
身体が軋む。
それでも速度は落とさない。
「雷断」
見えない線が走る。
空間ごと切り裂く斬撃が、風精霊の中心を貫いた。
初めて、完全に当たった。
風精霊の輪郭が崩れる。
揺れが止まる。
分裂していた像が一つに戻る。
そのまま、裂ける。
風が音を失う。
流れが止まる。
次の瞬間、形が崩壊した。
霧みたいにほどける。
空気へ溶ける。
消えた。
凛はその場に立ったまま動かない。
動けない。
呼吸が荒い。
脇腹から血が落ちる。
太腿も肩も熱い。
踏み込みのたびに、わずかにズレた感覚が残っている。
一歩、踏み出そうとして止まる。
足に力が入らない。
数秒、動けない。
それでも短剣は落とさない。
ようやく一つ止めた。
カメラが戻る。
凛を捉える。
コメントが一気に流れる。
「倒した!?」
「今の当たった!」
「見えてなかったよな!?」
凛は答えない。
ただ、中央を見る。
遠く。
ルナリアの周囲で、空間が一段、深く沈んだ。
さっきまでとは違う。
揺れの質が変わっている。
抑えられていた歪みが、外へ漏れ出す。
軋む音が遅れて届く。
規則だった揺れが崩れ、乱れ始める。
制御が一つ、消えた。
それだけで、ここまで変わる。
歪みが膨らむ。
さっきよりも速く。
さっきよりも深く。
空間そのものが、不安定に揺れる。
凛は小さく息を吐く。
「……抑えてたのが、消えた」
精霊を倒した。
だが、楽になっていない。
むしろ、不安定さだけが増している。
凛は短く息を吐く。
短剣の血を払う。
見ていたら、間に合わない。
見える前に決める。
先に動く。
それが答えだ。
歪みがさらに一段、膨らむ。
次は、もっと厄介になる。
凛は小さく笑った。
痛みを残したまま、理解だけが冷えている。
「……見てたら、間に合わない」
そう呟き、短剣を握り直す。
血が柄を滑る。
それでも手放さない。
風はもう消えた。
次に来るものへ、合わせるだけだ。




