75話 それぞれの戦場
ルナリアの笑みが消えたあと、場の空気が深く沈んだ。
軽さが消える。
静かなまま、何かだけが重くなる。
凛はまだ前を見ている。
今にも踏み出しそうな肩を、俺は掴んだまま離さない。
ここで前へ出せば終わる。
中央。
ルナリアは変わらない姿で立っている。
銀髪も、細い指先も、そのままだ。
届かない。
反応はある。
それでも接触だけが成立しない。
それでも凛だけは、まだ前へ行けると信じている。
その気持ちが分かるからこそ、ここで止めるしかない。
ここから先は、同じ場所に立っていない。
踏み込んだ瞬間に削られる。
そういう距離に変わっている。
「凛、下がれ」
「……まだ」
「今は違う」
凛の呼吸が乱れる。
その一瞬を縫うように、ルナリアが口を開いた。
遅れて、声が落ちる。
「――月は静かに満ちる」
凛の顔色が変わる。
「詠唱……!」
ひなたが息を呑む。
「四精霊のやつ……!」
コメントが一気に跳ねる。
「4精霊くるぞ!」
「止めろ!」
「詠唱通したら終わる!」
凛が踏み込む。
知っているからだ。
その先に何が来るかを。
雷が走る。
一直線にルナリアを貫く。
「雷閃!」
届かない。
当たる直前で、結果だけがずれる。
避けたわけじゃない。
最初からそこにいなかったみたいに、雷だけが空間を焼いた。
それでもルナリアは止まらない。
口だけが、少し遅れて動く。
「風は踊り、炎は歌う」
順番が違う。
言葉も欠けている。
詠唱としては崩れている。
それでも術式だけが成立していく。
壊れた並びから、正しい結果だけが引き出される。
そこに意思は感じない。
ただ現象だけが進んでいる。
凛がさらに一歩前へ出る。
「まだ間に合う!」
二撃目。
雷が重なる。
それでも届かない。
またずれる。
三歩目に入る。
俺は腕を掴んだ。
「戻れ!」
「あと一瞬で止められる!」
「間に合わない!」
引く。
それでも凛は前に出ようとする。
雪那の氷糸が足を縛り、ひなたが腕を引いた。
三人がかりで、ようやく押し戻す。
その間にも、詠唱は進む。
「水は眠り、地は目覚める」
四つ、揃った。
その瞬間、世界が一度だけ止まった。
音が落ちる。
風が止まる。
空気が沈む。
遅れて圧だけが降ってくる。
皮膚が重くなる。
呼吸が遅れる。
一拍だけ、存在そのものを押し潰されるような感覚が走った。
凛が小さく呟く。
「……間に合わなかった」
「もう止める段階は終わりだ」
俺は言う。
ズレた詠唱でも成立する。
その時点で前提が違う。
ルナリアは俺たちを見ている。
だが、見えていない。
それでも結果だけが起きる。
敵じゃない。
壊れた現象に近い。
火が灯る。
風が渦を巻く。
水が球体のまま浮かび、地面が低く唸る。
四つの気配が、それぞれ別の輪郭を持つ。
揃っていない。
形も密度も違う。
なのに危険だけが同じ重さで迫ってくる。
ひなたが一歩下がる。
「これ……勝手に分かれてません?」
雪那が低く言う。
「制御してるんじゃない」
「制御が壊れてる」
その直後だった。
四つの気配が一斉に傾く。
火が爆ぜる。
風が裂ける。
水が圧縮される。
地面が隆起する。
同時。
予兆はない。
結果だけが襲う。
俺は叫ぶ。
「避けろ!」
全員が散る。
横へ、後ろへ、別方向へ。
だが――足が浮いた。
重力が変わる。
下じゃない。
横でもない。
景色ごと引きずられる。
胃が浮く。
内臓が遅れる。
次の瞬間、足場に叩きつけられた。
位置が変わっている。
周囲を見る。
誰もいない。
完全に分断されている。
見えない壁が立ち上がる。
押しても抜けない。
そこから先の座標が消えている。
移動という結果だけが成立しない。
重力障壁。
遠くで、ひなたの声が弾ける。
「うそっ――!」
同時に、水が弾ける音。
反対側で雷が裂ける。
さらに別方向で、熱が膨らむ。
全員、別の戦場に入っている。
助けに行くという選択肢が、最初から存在しない。
それぞれが、それぞれの結果に閉じ込められている。
俺の正面。
土が盛り上がる。
岩が積み上がる。
巨体。
腕。
肩。
顔のない人型。
地精霊。
ゆっくりと一歩踏み出す。
足場が沈む。
重い。
真正面からやれば潰される。
だが、目を凝らす。
内部がわずかに歪んでいる。
一定じゃない。
中心が揺れている。
何かがおかしい。
俺は踏み込む。
逃げない。
同時に足場を蹴る。
意図的に崩す。
地精霊の足が沈む。
バランスがわずかに崩れる。
その瞬間、歪みが大きく揺れた。
露出しているわけじゃない。
だが、確かにそこに“何か”がある。
ここから先は――
見極める戦いになる。




