74話 違う笑い
凛の指先は、確かに届く距離まで伸びていた。
ほんの数センチ。
あと少しで触れる。
ルナリアの指先も、同じように持ち上がっている。
遅い。
だが向いている。
触れる。
そう見えた。
何も起きなかった。
弾かれたわけじゃない。
避けられたわけでもない。
すり抜けた感触すらない。
ただ、接触という結果だけが、そこに存在しなかった。
凛の指先は空を切っていない。
距離もある。
位置も合っている。
それなのに、触れていない。
俺は息を止める。
距離じゃない。
位置でもない。
触れた瞬間だけ、接触が成立しない。
凛がもう一度、手を伸ばす。
今度はさらにゆっくりと。
呼吸も、足音も、崩さない。
条件は満たしている。
それでも、届かない。
ひなたが震える声を漏らす。
「なんで……」
雪那が低く呟く。
「距離はある」
「でも成立しない」
俺は答える。
「接触だけ抜け落ちてる」
コメント欄が荒れる。
「触れてるだろ今!?」
「いや当たってない?」
「見えてるのに成立してない」
「バグってる」
凛が、もう一歩だけ踏み込む。
指先が重なる。
その“後”で、ルナリアの指がわずかに動いた。
遅れている。
触れたはずの結果に、あとから反応が追いつく。
時間がズレている。
凛が息を詰める。
「……もう一回」
手を引かない。
もう一度伸ばす。
また届かない。
もう一度。
届かない。
三度目。
リズムが崩れる。
空間が軋む。
俺は踏み込む。
「凛、止まれ」
「まだ届く」
凛は止まらない。
視線が離れない。
呼吸が乱れている。
完全に引き込まれている。
ルナリアの唇が動いた。
少し遅れて、声になる。
「……おそい」
コメントが爆発する。
「喋った!」
「今ルナリア喋った!」
「戻ってる!」
「いけるだろこれ!」
違う。
俺は確信する。
その言葉は、今の凛に向けたものじゃない。
時間がズレている。
文脈が一致していない。
凛だけが、希望を掴む。
「ルナリア」
もう一歩、踏み出す。
足元が揺れる。
見えない線が走る。
ルナリアの足元から、こちらへ。
俺は即座に腕を掴む。
「止まれ!」
遅い。
凛の位置が、半歩だけ横にズレる。
立っている。
だが立っている場所だけが動く。
ルナリアは、そこで笑った。
遅れて。
表情が先に作られ、あとから感情が乗る。
完全にズレている。
足場が裂ける。
音が遅れて来る。
ひなたが腕を掴む。
雪那の氷が地面に走る。
三人で引く。
凛を強引に引き戻す。
裂け目が、つま先を掠めて止まる。
凛が息を乱す。
「……まだ」
「無理だ」
俺は遮る。
ここで続ければ、次は間に合わない。
ルナリアは静かに立っている。
何もしていない顔で。
だが、今の結果を置いたのは間違いなくあれだ。
ひなたが震える。
「でも……反応はしてる」
雪那が答える。
「接触は成立しない」
「でも無反応じゃない」
俺は頷く。
だから危険だ。
完全な敵なら割り切れる。
だがこれは違う。
届きかける。
反応する。
なのに最後だけが必ず抜け落ちる。
凛が小さく呟く。
「今の笑い……違った」
「あれ、私じゃない」
その通りだ。
あの笑いは返答じゃない。
どこか別の時間の残響だ。
俺は判断する。
「一度下がる」
凛が動かない。
視線が残っている。
ひなたが呼ぶ。
「凛さん」
雪那が重ねる。
「次は崩れる」
凛の肩を掴む。
強引に引く。
ようやく一歩、下がる。
その瞬間。
空気が変わる。
境界が揺れる。
ルナリアの笑みが消える。
――少し遅れて。
そして。
誰にも向けられていないタイミングで、再び笑った。
「ふふ、いい顔をするのう」




