72話 届かない
次の足場へ踏み込んだ瞬間、違和感が走った。
崩れない。
今までなら、着地と同時に消失の順序を読む必要があった。
だが、この足場は沈まない。
軋みはある。
それでも、落ちる気配だけが存在しない。
風もない。
外では空域が唸っているはずなのに、この場所だけ空気が止まっている。
音も薄い。
崩壊の連続の中に、そこだけ切り取られたみたいに静かな領域があった。
広い。
これまでの浮遊島とは明らかに違う。
中央が大きく開けている。
戦うために整えられた舞台みたいだった。
その整い方が、嫌だった。
俺は一歩だけ進み、足場の縁を見る。
外側では岩片が崩れていく。
だが内側は保たれている。
自然じゃない。
保たれているんじゃない。
保たせている。
誰かの意思で。
ひなたが小さく言う。
「ここ……さっきまでと違いすぎません?」
「違う」
凛の返事は短い。
雪那が足元を見たまま、静かに続ける。
「境界がある」
見えない線がある。
そこから内側だけ、空間の規則が変わっている。
崩壊も、風も、全部が切り離されていた。
俺たちは足音を揃えたまま進む。
トン、トン、トン。
いつもなら生存のためのリズムだ。
だが、この場所では妙に浮いて聞こえる。
中央が見える。
そこで、俺は足を止めた。
人影がある。
銀髪。
細い身体。
整いすぎた立ち姿。
ルナリア・ラビット。
配信で見ていた姿、そのままだった。
そこに、立っている。
ただ、それだけだ。
動かない。
呼吸も見えない。
袖も髪も揺れない。
なのに、存在だけがこの空間の中心にある。
ひなたが息を呑む。
「……ルナリア」
その声に、反応はない。
視線だけが、こちらへ向いているように見える。
だが焦点が合っていない。
見ている。
だが、見えていない。
そんな違和感があった。
コメント欄が流れる。
いつも通りの速度。
遅延もない。
文字も崩れていない。
「ルナリアだ!」
「ボスっぽいなここ」
「配信映像めっちゃ綺麗じゃね?」
「さっきまでのバグなんだったんだよ」
正常だ。
それが、逆におかしい。
俺は視線を画面の端にだけ向ける。
ズレがない。
遅れもない。
外の観測が、そのまま届いている。
なのに。
この空間そのものは、明らかに歪んでいる。
「……正常すぎる」
小さく呟く。
誰にも聞かせるつもりはなかったが、凛だけがわずかに反応した。
ルナリアは動かない。
それでも、少し離れた場所の石床が静かに消えた。
音が遅れて届く。
攻撃の動作はない。
魔力の収束も見えない。
ただ結果だけが置かれる。
今までと同じ現象。
だが、この場所ではそれすら整っている。
乱れがない。
過剰でもない。
必要な分だけが削られている。
精密すぎる。
凛が一歩だけ前へ出た。
「……ルナリア」
声は小さい。
叫ばない。
震えも抑えている。
それでも、わずかに揺れていた。
ルナリアの指先が動いた。
いや、違う。
動きが遅れて見えた。
先に変化だけが見えて、あとから仕草が追いつく。
時間の噛み合い方がずれている。
首が、少しだけ傾く。
その仕草だけなら、配信で何度も見た動きだった。
眷属をからかう前の、小さな癖。
だが、遅い。
タイミングが合っていない。
そして視線だけが、俺たちの少し横を見ている。
合っていない。
全部が、ほんの少しずつずれている。
ひなたが小さく漏らす。
「なんか……違う」
雪那が答える。
「同じに見えるだけ」
その通りだった。
外見も、仕草も、声も。
一致しているはずなのに、噛み合わない。
凛がもう一歩踏み出す。
その瞬間、距離が変わらなかった。
近いはずだ。
この広さなら、数歩で届く。
それなのに、位置が変わらない。
進んでいる。
足は動いている。
だが、距離が縮まらない。
ひなたが声を上げかける。
「え、ちょっと待っ――」
「届かない」
雪那が遮る。
短い言葉だったが、それで十分だった。
物理じゃない。
空間そのものが、接触を拒んでいる。
ルナリアは、まだ動かない。
それでも、この場所の全てを支配している。
コメントは流れ続ける。
いつも通りの軽さで。
何も知らないまま。
「距離バグってる?」
「いや普通に近くね?」
「なんか緊張感やばいなこれ」
ズレている。
画面の向こうと、ここにいる俺たちで。
同じものを見ているはずなのに、見えている意味が違う。
俺は息を整える。
見ない。
見すぎれば、認識を引きずられる。
それでも分かる。
ここまでの痕跡。
消えた崩壊。
整った結果。
全部が、この一点に収束している。
中央に立つその姿。
ルナリア。
そのままだからこそ、おかしい。
凛が、もう一度だけ呼ぶ。
「ルナリア」
返事はない。
代わりに、足場の端が静かに消えた。
遅れて音が届く。
威嚇でも、攻撃でもない。
ただ、そこに結果が置かれる。
誰も動かない。
動けない。
ここで何かを始めた瞬間、すべてが崩れると分かっていた。
俺は短く言う。
「……まだだ」
戦うには早い。
近づくには足りない。
届くかどうかすら、まだ分からない。
それでも。
ここに来た理由だけは、はっきりしていた。
中央に立つその存在。
ルナリアは、ただそこにいる。
その姿のまま。
その姿だからこそ、目を逸らせなかった。




