65話 まだそこ
中ボスが消えた足場の上は、異様な静けさに包まれていた。
崩れていた足場は止まり、重力の歪みも収まっている。
風も穏やかで、さっきまでの空域とは別物だった。
ここだけが、迷宮から切り離されている。
俺は端末を起動し、協会回線を開く。
ノイズが一瞬走るが、すぐに神谷の顔が映った。
背後のオペレーションルームも確認できる。
少なくとも画面の上では、正常に見える。
「黒崎、繋がったか」
「はい。中ボス撃破地点です。
これから先の空域に入ります」
「状況は」
「外の空域は安定していません。
見ようとすると位置がずれます。
記録も信用できない可能性があります」
神谷は一瞬黙る。
その沈黙が、妙に長く感じた。
「帰還を優先しろ、と言いたいところだが……救助対象がいる以上、現場判断を優先する。
無理はするな」
「分かってます」
返事の直後、俺の声が半拍遅れて重なった。
神谷の顔がわずかにぶれる。
次に届いた声は、会話の続きではなかった。
「……そちらはもう深部か」
おかしい。
まだそこまで進んでいない。
画面に細かいノイズが走る。
神谷の口は動いているのに、音が遅れて届く。
「映像同期が崩れてる。
いったん記録だけ——」
言葉の後半が途切れた。
画面が一瞬止まり、そのまま数秒だけ巻き戻ったように同じ動きを繰り返す。
十分だった。
俺は通信を切る。
「外と繋がってても信用できない」
凛が短く言う。
「予想より悪い」
ひなたが不安そうに端末を見る。
「今の……神谷さん、変でしたよね」
「変だった」
雪那は外を見たまま口を開く。
「長居するほど、認識の方が侵される」
俺は端末をしまい、立ち上がる。
安全圏の外へ視線をやらず、縁だけを見る。
まだ入っていないのに、距離感が揺れていた。
近いはずの足場が、遠く見える。
遠いはずの石床が、逆に近い。
ここから先は、感覚そのものが信用できない。
「行く。
焦点は合わせるな。
輪郭だけ見ろ。
足場を確認しようとするな」
返事はない。
それでも全員が立ち上がる。
俺は足先で軽く石を叩く。
乾いた音が鳴る。
もう一度。
同じ間隔で。
トン、トン、トン。
この音だけは、さっきからずれていない。
少なくとも、俺にはそう感じられた。
「リズムを崩すな。
これだけはズレない」
凛がすぐに合わせる。
「了解」
雪那も短く頷く。
「問題ない」
ひなたは少し遅れて足を鳴らした。
「……こうですか」
「それでいい。
位置じゃなく、流れを見ろ。
風と魔力の流れは嘘をつかない」
俺が最初に踏み出す。
安全圏の境界を越えた瞬間、足裏の感触が薄くなった。
石を踏んでいる。
なのに、身体だけが半拍遅れて乗る。
気持ち悪い。
二歩目。
三歩目。
視線をぼかす。
輪郭だけを拾う。
少しだけ安定する。
いける。
そう思った瞬間が一番危ない。
前方の足場へ跳ぶ。
着地。
俺は成功する。
凛も続く。
視線移動が少ない。
最小限の動きだけで渡ってくる。
雪那も同じだ。
無駄がない。
最後にひなたが踏み出した。
「……っ」
声が小さく漏れる。
足場の端で、ひなたの動きが止まる。
足場を見ないと、立っていられないと思ったんだろう。
視線がはっきりと合った。
その瞬間、足場が動いたように見えた。
遠かった石床が目前まで跳ねる。
だが違う。
動いたのは足場じゃない。
ひなたの位置の方が、世界からずれた。
本人は乗ったつもりで、完全に空を踏んでいた。
落ちる。
ひなたの身体が黒の下層へ吸い込まれる。
下は見えない。
どこまで落ちるか分からない。
風の音すら消え、底のない穴だけが開いている。
俺は反射で身を投げる。
手を伸ばす。
指先が届く。
掴んだ。
——はずだった。
感触がない。
今のはおかしい。
掴めなかった位置だ。
次の瞬間、遅れて重さが手に乗る。
掴んだ位置と、触れている位置が一致しない。
滑る。
ひなたは下へ引かれている。
俺の位置も安定しない。
足場があるはずの場所が遠い。
なのに、落ちる感覚だけは近い。
凛が横から飛び込む。
短剣を足場へ突き立て、身体を固定する。
雪那の氷が俺たちの下へ伸びる。
空中に薄い足場が生まれる。
その一瞬で、俺はひなたの腕を引き上げた。
氷の上へ叩き込むように転がす。
俺も遅れて膝をつく。
喉が焼ける。
心臓がうるさい。
ひなたはしばらく動けなかった。
やがて震える声を絞り出す。
「……見ました」
凛が短く言う。
「見たら終わる」
「終わりはしない。
ただ、世界の方が位置をずらしてくる」
俺は息を整えながら言った。
「ここは足場が敵なんじゃない。
認識した瞬間、その認識に干渉してくる」
ひなたが青い顔のまま俺を見る。
「じゃあ、ここに長くいたら……どうなるんですか」
答えるまでに、少し時間がかかった。
「まだ仮説だ。
でも、位置だけじゃなく認識そのものがずれていくなら……人間だって例外じゃない」
「それって……」
「もし、この空域に長く取り込まれた人がいたら、元のままじゃいられないかもしれない」
言葉が重い。
「……会えたとしても、それが同じ人間かは分からない」
風が抜ける。
その一言で、空気がさらに冷えた気がした。
コメント欄が一瞬止まり、また流れ出す。
「今の落ち方やばい」
「見たらダメってこと?」
「まだそこ」
その一行だけ、他より近い位置に表示された。
俺は顔を上げる。
遠くの空域が歪む。
何も見えない。
それでも分かる。
向こうはこちらを認識している。
最初から、あの位置にいたわけじゃない。
見ていないのに、距離だけが縮んでいた。




