63話 名前が抜け落ちる
配信は続いている。
映像も音声も、生きているように見える。
だが、正常と呼ぶにはもう無理があった。
私は次の足場へ降りる。
着地の瞬間、脚が半拍遅れる。
重力を補正する。
立て直す。
遅れは誤差ではない。
動くたび、自分の身体が自分の命令に追いつかない。
内側に、確かなズレが残っている。
前方の空域が揺れる。
小型が三体。
奥に中型が二体。
本来なら、剣を抜く必要もない。
私は左手を上げる。
「沈め」
重圧が落ちる。
一体がその場に縫い止められる。
火を纏わせた斬撃を重ねる。
落ちる。
返す刃で二体目へ入る。
その瞬間、肘の角度がわずかに狂う。
刃先が浅い。
翼の端を削るだけで終わる。
遅い。
魔物が距離を取る。
私は踏み込む。
軽化をかける。
身体は前へ出る。
だが、着地の感覚が遅れる。
足場に乗ったはずなのに、重心だけが空中に残る。
その空白に、三体目の嘴が割り込む。
私は剣を立てる。
火花が散る。
押し返す。
そのまま風を圧縮し、至近距離で叩きつける。
二体が吹き飛ぶ。
残る中型が上を取る。
私は見上げる前に、重踏で空中に足場を作る。
一歩。
二歩。
軌道を変える。
真横へ出る。
剣を振る。
今度は深い。
首元まで断ち切る。
巨体が傾き、黒い下層へ落ちていく。
最後の一体。
地の魔力を流し、足場をせり上げる。
体勢を崩したところへ水刃を重ねる。
終わる。
終わった、はずだった。
呼吸を整える。
だが、胸の上下と息のタイミングが噛み合わない。
私は眉を寄せる。
「面白くないのう」
その声が、いつものものか、一瞬だけ分からなかった。
コメントは流れている。
「今のでも強い」
「でも噛み合ってない」
「ラグってるみたい」
「ルナリア、一回休め」
同じ文が、遅れてもう一度現れる。
「ルナリア、一回休め」
位置が違う。
流れにも乗っていない。
異物のように浮く。
視線を切る。
その瞬間、音が消えた。
風の音。
機材の駆動音。
呼吸。
すべて、同時に消える。
すぐに戻る。
頭の奥が冷える。
足場の奥。
歪んだ空域の向こう。
あれがいる。
半透明の液体。
内部で景色がずれて見える。
中心に暗い点。
だが、見ようとすると位置が外れる。
距離が分からない。
それでも、あちらからの視線だけは確かだ。
私は踏み出す。
距離を詰めるためではない。
視線を外すためだ。
脚が止まる。
止めた覚えはない。
命令が届いていない。
遅れて、自分の右手が視界に入る。
白い指。
細い。
長い。
私の手だ。
そう理解するまでに、半拍かかる。
背骨が冷える。
「……見ておるな」
低い声。
配信の口調ではない。
コメントが揺れる。
「今の誰?」
「声違う」
「ルナリア?」
私は笑う。
笑えているはずだ。
口角の位置も分かる。
だが、頬の動きが遅れてついてくる。
「案ずるでない。
少しばかり、機嫌が悪いだけじゃ」
言葉が浮く。
音が先に出て、意味があとから追いつく。
専用機材が大きく揺れる。
軌道が乱れる。
映像が白く飛ぶ。
ノイズ。
音が途切れる。
戻る。
また途切れる。
コメントの流れが止まる。
静止。
その中に、一行だけ浮かぶ。
「みてる」
消える。
次は中央に現れる。
「みてる」
また消える。
さらに、もう一度。
「みてる」
ログには残らない。
通常のコメントも戻らない。
私は配信を切ろうと手を伸ばす。
遅い。
分かっている。
それでも届く距離だ。
指先が操作盤に触れる。
感触がない。
私の手が、そのまますり抜けたように見える。
ありえない。
もう一度触れる。
今度は触れた。
だが、反応がない。
命令だけが、どこにも届かない。
配信は生きている。
だが、外とは繋がっていない。
画面に黒い線が走る。
映像が歪む。
中央に、短い文が浮かぶ。
「そこ」
専用機材の光が落ちる。
音が消える。
完全な沈黙。
私は自分の手を見る。
白い。
冷たい。
剣を握る力もある。
だが、足元の感覚が遅れる。
視線を落とす。
足場の端が崩れている。
違う。
崩れているのは石ではない。
私の立っている位置の方だ。
半歩、外れている。
私は即座に重力を叩きつける。
身体を押し戻す。
戻る。
だが、理解していた。
これは戦闘中だけの異常ではない。
動くたび。
考えるたび。
内側から、少しずつ書き換えられている。
遠くで、笑う気配がした。
耳ではない。
頭の奥で響く。
私は剣を握り直す。
力はある。
魔力も残っている。
それでも、安心はどこにも届かない。
私は、自分の名前を思い出そうとした。
思い出せる。
――はずだった。
その瞬間だけ、空白があった。




