138話 消えなかった跡
病院の廊下は、ダンジョンの中より静かだった。
白い壁。
消毒液の匂い。
遠くで鳴る機械音。
その全部が、さっきまでの黒雷を現実から切り離そうとしているみたいだった。
けれど、俺の手にはまだ感覚が残っている。
ひなたの腕を掴んだ時の軽さ。
雪那の氷壁が砕けた音。
白石の目から感情が抜け落ちた瞬間。
そして、ルナリアの腕の中で意識を失った白石の姿。
協会指定の医療施設に搬送されてから、数時間が経っていた。
ひなたは治療を終えて、別室で安静にしている。
右足は打撲と捻挫。
肩の傷も浅い。
命に別状はない。
それを聞いた時、ようやく息が少しだけ戻った。
雪那は魔力枯渇で入院扱いになった。
命に危険はないが、しばらく動くなと医師に言われている。
本人は不満そうだったが、氷壁をあれだけ連続で張ったのだから当然だった。
問題は、白石だった。
まだ目を覚まさない。
病室の前には協会職員が立っている。
一般病室ではない。
探索者専用の隔離処置室だ。
黒雷の影響が残っている可能性があるため、許可された人間しか入れない。
俺は廊下の椅子に座り、スマホの画面を見ていた。
見なければいい。
そう思っても、指は勝手に動く。
SNSも動画サイトも、白石の話題で埋まっていた。
黒雷。
神雷化。
ルナリア介入。
桐崎戦。
ひなた負傷。
切り抜き動画は、すでにいくつも拡散されている。
コメント欄は荒れていた。
「白石凛どうなった?」
「黒雷やばすぎ」
「ひなたちゃん怪我してたよな」
「ルナリア強すぎる」
「協会説明しろ」
「企業側なにしてんだ」
画面を閉じる。
静かな廊下に戻っても、頭の中ではコメントが流れ続けていた。
あの配信は、もうただの対抗戦ではなくなっている。
協会も、企業も、動かざるを得ない。
それでも今の俺には、説明より先に確認しなければならないことがあった。
白石が目を覚ますか。
目を覚ました時、白石は白石のままなのか。
扉が開いた。
中から出てきたのはルナリアだった。
配信中の姿ではない。
月の姫としての幻惑も、今はまとっていない。
病院の廊下に立っているのは、ただの探索者としてのルナリアだった。
いつもの軽さはある。
けれど、目だけは笑っていない。
「悠斗君、入っていいよ」
俺は立ち上がる。
「エリナ、検査は終わったのか」
「一通りね。でも、終わったって言える結果じゃないかな」
その言い方で、胸の奥が沈む。
病室に入ると、白石はベッドの上で眠っていた。
顔色は悪くない。
呼吸も安定している。
医療機器の数値も、素人目には異常があるようには見えない。
だが、左腕だけが違っていた。
肘から手首にかけて、薄い黒い筋が残っている。
黒雷の痕。
戦闘中に浮かび上がっていたものより薄い。
けれど、消えていない。
ルナリアは白石の左腕を見下ろしたまま、軽く指を鳴らした。
透明な魔法陣が浮かぶ。
風が肌を撫でる。
水の膜が薄く広がる。
地属性の小さな石片が腕の周囲で静止し、火の小さな灯が痕の上をなぞった。
最後に、重力がわずかに沈む。
それでも、黒い筋は反応しない。
ルナリアは眉を寄せた。
「呪いじゃないね」
「違うのか」
「違う。呪いなら、もっと術式の癖が出る。誰かが外から縛ってる感じもない」
ルナリアは続けて、白石の額の上に幻惑の薄い光を重ねた。
眠っている白石の表情は変わらない。
魔法陣が静かに消える。
「精神支配でもない。誰かに操られてるなら、認識の奥に引っかかりがあるはずなんだけど、それもない」
「魔力暴走は?」
「それも違う。魔力の流れは乱れてない。むしろ綺麗すぎるくらい整ってる」
綺麗すぎる。
その言葉が嫌だった。
あの時の白石もそうだった。
無駄がない。
迷いがない。
正しい。
だから怖かった。
ルナリアは椅子に腰を下ろし、腕を組む。
「呪いじゃない。魔力暴走でもない。精神支配でもない。人格を別の誰かに乗っ取られてる感じでもない」
「じゃあ、何なんだ」
ルナリアはすぐに答えなかった。
いつものように軽く笑って、からかうこともしない。
病室の機械音だけが、小さく続いている。
「まだ断定できない」
短い言葉だった。
「でも、空の迷宮で見たものに近い気がする」
俺の背筋が冷えた。
空の迷宮。
ルナリアを一度呑み込み、ルナリア・ラビットという姿すら揺らがせた場所。
あの最奥で触れた異常が、今度は白石の中にいるかもしれない。
そう考えた瞬間、病室の白さが急に薄気味悪く見えた。
「空の迷宮と関係があるってことか」
「分からない。証拠はないし、同じものだとも言い切れない」
ルナリアは白石の左腕から目を離さない。
「でも、嫌な感じは似てる。外から縛るんじゃなくて、中から形を変える感じ」
俺はベッドのそばに立ち、白石の左腕を見る。
黒い筋は薄い。
けれど、そこにある。
終わっていない。
そう思った瞬間だった。
ドクン、と。
左腕の黒い筋が脈打った。
病室の空気が一瞬だけ重くなる。
黒い雷が、白石の左腕を細く走った。
眠っている白石の指先がわずかに動く。
俺は息を止めた。
「今のは……」
ルナリアは立ち上がっていた。
さっきまでとは目が違う。
軽さが消えている。
黒い筋は、すぐに静まった。
何もなかったように、白石は眠り続けている。
だが、ルナリアは腕から目を離さない。
「終わってないね」
低い声だった。
「むしろ、ここからかも」
俺は白石を見る。
眠ったままの顔は、いつもの白石と変わらない。
それなのに、左腕だけが別のもののように見えた。
ルナリアが小さく息を吐く。
「凛ちゃんの中に、まだ何かいる」
病室の白い光が、妙に冷たく感じた。
俺は何も言えず、白石の左腕に残った黒い痕を見つめていた。




