130話 壊れかけた目
桐崎の槍が振り下ろされる。
今までで一番大きく、今までで一番荒い一撃だった。
俺は半歩だけ横へずれる。
槍の穂先が床を砕いた。
石片が跳ねる。
風圧が頬を叩く。
だが、当たらない。
もう、動きの始まりが見えていた。
呼吸が止まる。
重心が前に落ちる。
視線が先に逃げ道を追う。
その順番が崩れない限り、桐崎の槍は俺に届かない。
桐崎が歯を剥く。
「避けんなよ、黒崎ィ!」
「避けられるなら避ける」
俺は短く返し、短剣を構え直した。
怒る必要はない。
言い返す必要もない。
今やるべきことは、桐崎を倒すことじゃない。
止めることだ。
桐崎が再び踏み込む。
突き。
横薙ぎ。
返しの突き。
さっきより速い。
力も乗っている。
けれど、もう遅れて見える攻撃ではなかった。
右。
次は下。
戻しが遅い。
俺は一撃目を外へ流し、二撃目の内側へ入る。
三撃目が来る前に、短剣の柄で桐崎の手首を叩いた。
鈍い音が響く。
桐崎の槍先が一瞬だけ下がった。
「っ……!」
その隙に、俺は踏み込む。
刃は肩を深く切らない。
防具の隙間へ浅く当て、すぐに離れる。
血はほとんど出ない。
だが、当たった。
桐崎の表情が歪む。
コメント欄が一気に流れた。
「当てた」
「黒崎、反撃した!」
「浅い?」
「急所狙ってない?」
「完全に見えてるだろ」
桐崎は肩を押さえない。
痛みを無視して槍を振るう。
いや、無視しているというより、痛みが届いていないように見えた。
俺はそれを避けながら、次を見る。
右肩。
手首。
脇腹。
膝。
狙う場所は全部、動きを止めるための点だけだ。
倒すための一撃じゃない。
崩すための一撃。
桐崎が踏み込むたび、俺は最短で横へ抜ける。
戻りが遅れた瞬間に、短剣の柄か刃の腹を当てる。
肩。
腕。
足。
浅い。
だが、確実に動きが鈍る。
桐崎の呼吸が荒くなっていく。
「なんで……なんで当たる……!」
桐崎の声が震えていた。
怒りだけじゃない。
焦りが混ざっている。
自分が押しているはずなのに、少しずつ削られている。
その事実を理解できていない顔だった。
玲奈はもう杖を握ったまま動けない。
「隼人、もうやめて……お願いだから」
美咲も画面を見ていなかった。
端末の数字は伸びている。
同接も、コメントも、さらに増えている。
それでも、美咲の顔にはもう笑みがない。
「これ、勝負じゃない……」
白石はその言葉にも反応しなかった。
無表情のまま、俺と桐崎の攻防を見ている。
桐崎が押され始めたことも、玲奈が怯えていることも、感情としては拾っていない。
ただ、結果だけを見ている。
その視線が、ほんの一瞬だけ俺に留まった。
俺が急所を外し続けていることに、気づいたのだと思った。
合理的に勝つなら、もっと速い場所がある。
一撃で終わらせる点もある。
それでも俺は選ばない。
勝てる場所を見つけても、そこを切らないことがある。
白石の唇が、わずかに動いた。
「そこで終わらせればいい」
声は小さかった。
責めているわけではない。
疑問ですらない。
最短ではない行動を、理解できないだけの声だった。
俺は答えない。
答えるより先に、桐崎が叫んだ。
「見下してんじゃねえぞ!」
槍が横から迫る。
俺は一歩下がるのではなく、前へ出た。
桐崎の間合いの内側。
槍が最も扱いづらい距離。
短剣の柄を肘へ当てる。
桐崎の腕が跳ねた。
槍の軌道がずれる。
そのまま脇腹へ浅く刃を入れる。
桐崎の体が揺れた。
だが倒れない。
倒れないどころか、笑った。
「まだだ」
低い声だった。
「この程度で、終わるわけねえだろ」
その顔を見て、背筋が冷えた。
普通なら引く場面だ。
体勢を整える。
距離を取る。
状況を見る。
だが桐崎は、さらに踏み込む。
傷ついたことが、止まる理由になっていない。
むしろ、もっと前へ出るための燃料になっている。
ルナリアが小さく呟く。
「うわ、嫌な感じ」
ひなたが息を呑む。
「黒崎さん、勝ってますよね……?」
「勝ってるよ。戦いだけならね」
ルナリアの声は軽かった。
でも、視線はずっと俺を追っている。
桐崎が暴れても、凛が無表情でも、ルナリアは俺の足の置き方を見ていた。
俺がまだ決めに行かない理由を、言葉にしなくても分かっているようだった。
桐崎が突っ込んでくる。
俺は避ける。
短剣が桐崎の首元へ伸びる。
刃は皮膚に触れる直前で止まった。
広間の空気が止まる。
桐崎の喉元に、冷たい刃がある。
勝負なら、これで終わりだった。
コメント欄が遅れて爆発する。
「終わった」
「首取れてた」
「黒崎勝ちだろ」
「止めた?」
「桐崎、負けじゃん」
桐崎は動かなかった。
一秒。
二秒。
その顔から笑みが消える。
普通なら、ここで認める。
負けを。
届かなかったことを。
だが、桐崎の口元がゆっくり上がった。
「まだだろ?」
俺は短剣を止めたまま、桐崎を見る。
桐崎の目は笑っていない。
「まだ終わってねえよな。俺は立ってる。槍も持ってる。なら、まだ勝てる」
「桐崎」
「勝つんだよ」
声が低くなる。
喉元に刃があるのに、桐崎は前へ出ようとした。
玲奈が悲鳴に近い声を上げる。
「やめて!」
美咲も息を呑む。
白石だけが動かない。
だが、その目がわずかに細くなった。
桐崎の行動が、効率から外れたからか。
それとも、負けを認めないという異常を見たからか。
分からない。
ただ、白石も初めて反応した。
桐崎の輪郭が、ほんの少し揺らいだように見えた。
熱のせいではない。
魔力の揺れでもない。
もっと奥にある何かが、勝利への執着に引っ張られている。
戦闘技術ではない。
精神だけでもない。
別の何かが、桐崎を前へ押している。
ルナリアが、いつもより低い声で言った。
「見えた?」
俺は短剣を握る指に力を込める。
桐崎はまだ笑っている。
壊れかけた目で、俺だけを見ている。
俺は答えた。
「ああ」
これは、ただの勝負じゃない。
桐崎隼人は、もう負けを認められないところまで来ていた。




