114話 臨時協力
協会の準備室には、端末の駆動音だけが小さく響いていた。
誰も大きな声を出さない。
凛から返ってきた短い言葉が、まだ部屋の空気に残っている気がした。
今は必要ない。
ひなたは机に突っ伏すように座り、閉じた端末をぼんやり見ている。
雪那は壁際で腕を組み、何かを整理するように視線を落としていた。
ルナリアだけが、妙に落ち着いていた。
落ち着いているというより、覚悟しているように見える。
俺は椅子へ腰を下ろしたまま、凛とのメッセージ画面を見つめた。
既読のついた一文は、時間が経っても変わらない。
「このままだと、凛さん……」
ひなたが小さく呟く。
その続きを、誰も言わなかった。
ルナリアが机の端へ軽く腰を乗せる。
「今すぐ壊れるわけじゃないよ」
「でも、危ないんですよね?」
「危ない」
即答だった。
ひなたの肩が小さく揺れる。
ルナリアは少しだけ視線を伏せた。
「侵食は、人格を丸ごと奪うものじゃない。少なくとも、凛に起きてるのはそういうタイプじゃない」
「じゃあ、何なんだ」
俺が聞くと、ルナリアは短く答えた。
「削るんだよ」
削る。
その言葉が、前の配信で見た凛の動きと重なった。
返すはずの言葉。
待つはずの一拍。
仲間へ向けるはずの視線。
全部、必要ないものみたいに落とされていた。
「迷い、怖さ、ためらい、情。そういうものを、判断を遅くする余計な要素として扱う。削れば速くなる。削れば間違えにくくなる。だから、最初は強くなったように見える」
「それって……悪いことだけじゃないようにも聞こえます」
ひなたの声は震えていた。
ルナリアは責めなかった。
「そう。だから怖い」
雪那が顔を上げる。
「強くなる代わりに、人として必要な揺れを失う」
「うん。凛はまだ残ってる。でも、今のままだと、いつか自分で残しておきたいものまで不要だと判断する」
準備室が静かになった。
俺は手元の端末を握る。
白石はまだ白石だ。
それは間違いない。
だからこそ、間に合ううちに止めなければならない。
「放置はできないわ」
雪那が言った。
その声は冷静だったが、いつもより少し硬い。
「今の凛は強すぎる。判断を失えば、被害が出る。本人の意思を尊重するだけでは済まない段階に入っている」
ひなたが顔を上げる。
「でも、凛さんを危険物みたいに言わないでください」
「言っていないわ」
雪那はすぐに返した。
「危険だからこそ、守る必要があると言っているの」
ひなたは言い返せなかった。
その代わり、膝の上で拳を握る。
俺も同じだった。
白石を止めたい。
でも、敵として止めたいわけじゃない。
戻ってこいと命令したいわけでもない。
あいつが自分で戻れる場所を、消さないようにする。
それが、今の俺たちにできることだった。
「ルナリア」
俺が呼ぶと、ルナリアは少しだけ首を傾げた。
「なに?」
「手伝ってくれ。白石に何が起きているのか、俺たちだけじゃ見誤る」
ルナリアはすぐには答えなかった。
いつものように茶化すこともしない。
少しだけ目を細めて、俺たち全員を見る。
「正式に入るつもりはないよ」
「分かってる」
「私はあなたたちのパーティーメンバーじゃない。協会にも、探索者登録にも、そういう形では関わらない。長く近くにいれば、私の方にも余計な問題が出る」
「それでもいい」
ルナリアは小さく息を吐いた。
それから、少しだけ口元を上げる。
「でも、放っておく気もない。凛は友達だしね」
その言い方だけ、少しだけいつもの彼女に戻っていた。
ひなたの表情がわずかに緩む。
「じゃあ……」
「臨時協力。必要な時だけ手を貸す。それ以上はしない」
「十分だ」
俺が言うと、ルナリアは頷いた。
そこで、雪那がテーブルへ端末を置く。
「役割を整理しましょう」
雪那の声に、空気が少しだけ切り替わった。
「悠斗は観察。凛の変化を最初に拾えるのはあなた」
「ああ」
「私は戦闘時の抑制と危険判断。ひなたは凛の反応を見る役。たぶん、理屈より感情に近いところはあなたの方が届く」
ひなたは驚いたように自分を指差した。
「私ですか?」
「そう。凛がまだ凛でいるなら、あなたの声を無視できない可能性がある」
ひなたは少しだけ背筋を伸ばす。
「分かりました。怖いですけど、やります」
「私は侵食の見極めと、止め方の補助」
ルナリアが続ける。
「ただし、私が全部やるわけじゃない。凛に届くのは、たぶん私じゃないから」
その視線が一瞬、俺へ向いた。
俺は答えなかった。
答えられるほど、まだ何も掴めていない。
その時、ひなたの端末が短く鳴った。
「……新しい通知です」
画面を開いたひなたの顔が強張る。
雪那が横から覗き込む。
俺も立ち上がり、端末を見る。
そこには、探索支援企業の公式告知が表示されていた。
合同高難度検証配信。
複数パーティーによる攻略データ収集。
スポンサー協賛。
視聴者参加型の勝敗予想。
そして、参加探索者の欄に白石凛の名前があった。
隣には、企業側パーティーのシルエット。
ひとりだけ、はっきりとした輪郭が映っている。
槍を持つ男。
顔までは見えない。
けれど、立ち方に見覚えがあった。
胸の奥が嫌な形で冷える。
「この人、誰ですか?」
ひなたが聞く。
俺はすぐには答えなかった。
まだ確信はない。
でも、記憶のどこかに引っかかる。
雪那が告知文を読む。
「高火力前衛。元Bランク配信パーティー所属。現在は企業支援チームの主力……名前はまだ伏せられているわね」
ルナリアが画面を覗き込み、少しだけ眉を寄せた。
「嫌な感じが増えたね」
その声は軽かった。
でも、目は笑っていない。
画面の告知は派手だった。
期待を煽る文言。
豪華な協賛名。
勝敗予想の受付開始。
そこに並ぶ文字のすべてが、熱を持っているように見える。
けれど、俺にはその熱がひどく薄く感じられた。
数字。
話題性。
勝敗。
効率。
検証。
凛が今、近づいている場所の輪郭が少しずつ見えてくる。
俺は端末の画面を見たまま、拳を握った。
「調べる。白石の周りに誰がいるのか、全部」
雪那が頷く。
ひなたも、震える息を吐いてから頷いた。
ルナリアはテーブルから降り、帽子のつばを軽く直す。
「急いだ方がいい。凛だけなら、まだ引き戻せる。でも、別のものが混じると面倒になる」
別のもの。
その言葉が、告知画面の中の槍のシルエットと重なった。
合同配信は、明後日。
残された時間は、思っていたより短かった。




