113話 必要ない
配信が終わった後も、しばらく誰も動かなかった。
準備室の端末には、黒く落ちた画面だけが残っている。
さっきまでそこに映っていた凛の雷も、企業ロゴも、流れていたコメントも消えていた。
それなのに、画面の向こう側に凛だけが残っているような気がした。
ひなたは椅子に座ったまま、両手を膝の上で握っている。
雪那は腕を組み、何かを考え込むように視線を落としていた。
ルナリアは配信のログを巻き戻し、凛が止まった場面をもう一度だけ再生する。
「これ、本当に凛さんなんですよね……?」
ひなたの声は小さかった。
顔は凛だった。
声も、動きも、雷も、俺たちが知っているものと同じだった。
違うのは、その間にあったはずのものだ。
相手を見る一瞬。
仲間の返事を待つ間。
視聴者の反応に合わせる余裕。
そういう小さなものが、画面の中では削られていた。
ルナリアが端末から顔を上げる。
「凛本人だよ。そこは間違えない方がいい」
「でも、あんなの……」
「別人になったわけじゃない。感情が消えたわけでもない。判断の順番が変えられてる」
判断の順番。
雪那が目を細めた。
「何を先に選ぶか、ということ?」
「そう。普通なら一瞬迷う。待つ。言葉を返す。でも今は、その前に答えが出てる。必要か、必要じゃないか。それだけで切られてる」
ルナリアは画面を指先で軽く叩いた。
止まった凛の映像が、そこに映っている。
細剣を下げ、視線だけが宙に浮いている。
ほんの数秒の空白。
「空の迷宮の中にいたものは、無駄を嫌う。正しい動きだけを残そうとする」
「正しいなら、悪いことじゃないんですか?」
ひなたが聞いた。
責める声ではなかった。
ただ、そう思いたかったのだろう。
ルナリアは少しだけ眉を寄せる。
「正しさだけで人は動いてないでしょ」
その言葉で、準備室が静かになった。
正しい。
強い。
速い。
効率がいい。
画面の中の凛は、確かにそうだった。
でも、見ていて苦しかった。
「白石は、まだ戻れるのか」
俺が聞くと、ルナリアはすぐには答えなかった。
いつもの軽い返しはない。
代わりに、端末の画面をもう一度見て、凛の目元を拡大する。
「戻れる。まだ凛の方が勝ってる」
ひなたが顔を上げる。
「本当ですか?」
「完全に向こうへ寄ってたら、さっきのコメントで止まらない。黒崎たちといた時の方が楽しそうだった、ってやつ。あれで一瞬だけ引っかかった」
俺も同じところを見ていた。
凛は表情を変えなかった。
けれど、何も反応していないようで、確かに一瞬だけ止まった。
あれが凛本人の反応だったのなら、まだ届く場所にいる。
そう思いたかった。
雪那が静かに言う。
「問題は、どれくらい持つかね」
ルナリアは小さく頷いた。
「長くはないと思う」
重い言葉だった。
俺は端末を取り、凛とのメッセージ画面を開いた。
前に送ろうとして止めたままの入力欄が残っている。
何を入れればいいのか分からない。
「連絡するの?」
ルナリアが聞く。
「する。ただ、言葉を間違えたくない」
「命令したら逃げると思うよ。今の凛は、自分が危ないことを少しは知ってる。だから離れた」
「分かってる」
戻ってこい。
それは違う。
大丈夫か。
それも違う。
何が起きてる。
それは、凛自身が一番知りたいはずだ。
俺はしばらく指を止めたあと、短く打った。
『話がしたい。配信じゃなくて、直接』
送信する。
既読はすぐについた。
返事は来ない。
画面の上に、既読の文字だけが残っている。
ひなたが不安そうに覗き込む。
「既読、つきましたね」
「ああ」
待つ時間がやけに長く感じた。
やがて、凛から返事が来た。
『今は必要ない』
それだけだった。
胸の奥が沈む。
拒絶された、というよりも、処理されたような短さだった。
会う必要があるか。
ない。
だから終わり。
そんなふうに切られた気がした。
「……白石らしいと言えば、白石らしいな」
「無理に軽く言わなくていいよ」
ルナリアの声が少しだけ柔らかかった。
その柔らかさが、逆に痛かった。
「今のは、凛らしい短さじゃない。会う理由を切られただけ」
分かっていた。
少し前の凛なら、同じ断るにしても、もう一言あった。
今は難しい。
落ち着いたら連絡する。
迷惑をかけたくない。
そんな言葉があったはずだ。
今は、必要ない。
それだけ。
雪那が話を切り替えるように端末を操作した。
「企業側の企画ページが出ているわ」
ひなたが横から覗き込む。
画面には、探索支援企業の名前と、大型配信企画の告知が並んでいた。
実力者同士の合同検証配信。
高難度攻略を見据えたデータ収集。
視聴者参加型の勝敗予想。
言葉だけなら、ただの派手な配信企画だ。
だが、その中央に凛の名前があった。
白石凛。
空の迷宮生還者。
雷系高機動アタッカー。
実戦データ提供者。
紹介文の横には、凛の戦闘中の画像が使われている。
雷をまとい、細剣を構えた横顔。
綺麗な一枚だった。
綺麗すぎて、余計に嫌だった。
凛がそこにいるのではなく、凛の強さだけが切り取られて並べられている。
まるで、商品棚に置かれた最新装備みたいに。
「なんか……嫌です」
ひなたが小さく言った。
「向こうから見れば、話題性は十分でしょうね」
雪那の声は冷静だった。
だが、冷たくはない。
「空の迷宮で注目された直後。戦闘能力も高い。凛が乗れば、企画として強い」
「だからって、こんなの……」
ひなたは言葉を飲み込む。
俺も同じだった。
凛が自分で選んだ可能性はある。
だが、今の状態でその選択を本当に凛の意思と言っていいのか。
そこが分からない。
「そこに行けば、白石に会えるかもしれない」
「行くの?」
ルナリアがこちらを見る。
俺はすぐには頷かなかった。
今すぐ押しかけても、凛は会わないかもしれない。
企業側も簡単には通さないだろう。
下手に動けば、余計に警戒される。
だから、まず必要なのは情報だ。
凛が何を選び、誰と組み、どこへ向かおうとしているのか。
それを知らずに手を伸ばしても、届かない。
「行く前に調べる。配信ログも、企業側の企画も、白石の動きも」
「それがいいと思う」
ルナリアは頷く。
「今は追いかけるだけじゃ駄目。凛が何を切り捨てようとしてるのか、そこを見ないと」
何を切り捨てようとしているのか。
凛が切り捨てようとしているのは、無駄なのか。
迷いなのか。
それとも、俺たちなのか。
答えはまだ出ない。
だが、ひとつだけ分かった。
画面の向こうで綺麗すぎる雷を放っていた凛を、ただ強くなったとは思えない。
あれは、強さの形をした危うさだ。
ひなたが小さく言う。
「私、凛さんが戻ってくる方を信じたいです」
「戻すんじゃない」
俺は自分でも驚くほど低い声で言った。
ひなたがこちらを見る。
俺は閉じた端末を握り直す。
「あいつが自分で戻れる場所を、消さないようにする」
雪那が短く頷いた。
ルナリアは、少しだけ口元を緩める。
「それなら、まだ間に合うかもね」
その言葉を信じることにした。
準備室の外では、協会の職員たちがいつも通りに歩いている。
何も知らない日常の音が、薄い扉越しに聞こえていた。
俺たちだけが、さっきまで見ていた画面の静けさを引きずっている。
凛からの新しい返信は来ない。
ただ、既読のついた短い文だけが残っていた。
今は必要ない。
その一文が、凛との距離を示す線のように見えた。




