111話 離れていく雷
協会の配信準備室に着いた時、ひなたはもう端末を広げていた。
雪那も壁際の席に座っている。
試作機のケースはテーブルの上に置かれ、浮遊カメラはまだ起動していない。
凛だけがいなかった。
約束の時間までは、まだ少しある。
遅刻と言うほどではない。
それでも、俺は入口の方を何度か見ていた。
凛は時間に正確だ。
待たせる時は、必ず先に連絡を入れる。
少なくとも、今までそうだった。
ひなたが端末から顔を上げる。
「凛さん、珍しいですね。寝坊ですかね?」
「白石が寝坊するところは想像しづらいな」
「ですよねえ。私ならありますけど」
「自分で言うことじゃない」
ひなたは笑おうとした。
けれど、すぐに端末へ視線を落とす。
送ったメッセージには既読がついている。
返事はない。
その沈黙が、昨日の協会ラウンジで起きた空白を思い出させた。
凛が笑っていた。
話していた。
次の瞬間、そこから意識だけが抜け落ちたように止まった。
今、なに話してた。
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
雪那が静かに言った。
「昨日のことが関係している可能性はあるわ」
「でも、凛さん、帰る時は普通でしたよ?」
「普通に見せていただけかもしれない」
ひなたは言葉に詰まった。
その時、俺の端末が短く震えた。
凛からだった。
画面に表示された文面は、驚くほど短い。
『少し、一人で考えたい。今日は別行動にする』
それだけだった。
理由もない。
謝罪もない。
いつ戻るとも書かれていない。
凛らしいと言えば、凛らしい。
余計な言葉を足さないところは、いつも通りだ。
けれど、いつもより硬かった。
ひなたが画面を覗き込み、口元だけで笑おうとする。
「考えたい時って、ありますもんね。凛さんなら、そのうち普通に戻ってきますよ」
声は明るい。
だが、少しだけ無理があった。
雪那は端末を見たまま、表情を変えない。
「一人で考える、という言い方が引っかかるわね」
「踏み込むべきかどうかが分からない」
俺は正直に言った。
昨日の空白を見た以上、放っておくのは怖い。
だが、凛自身が距離を取った。
そこで無理に追いかければ、逆に追い詰めるかもしれない。
判断がつかない。
こういう時、観察は万能じゃない。
見えているものが少なすぎる。
ひなたが試作機のケースに手を置いた。
「今日は配信、なしにしますか?」
「その方がいい」
雪那が即答する。
俺も頷こうとした。
その直前、ひなたの端末が鳴った。
配信通知だった。
ひなたが画面を見て、固まる。
「……え?」
「どうした」
「凛さんが、配信始めました」
空気が変わった。
ひなたが慌てて通知を開く。
画面に映ったのは、ダンジョンの入口だった。
そこに凛がいる。
俺たちと一緒ではない。
彼女の隣には、見覚えのない探索者が3人いた。
装備は整っている。
企業所属らしいロゴ入りのジャケット。
表情も立ち方も、どこか整いすぎていた。
効率重視のパーティー。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
コメントが画面に流れていく。
「凛さん単独?」
「黒崎たちは?」
「別パーティー?」
「え、何このメンバー」
「喧嘩した?」
「空気違くない?」
ひなたは声を出せないまま、画面を見つめている。
凛はカメラに向かって、いつものように落ち着いた声で言った。
「今日は臨時パーティーでの検証配信です。短時間で終わらせます」
言葉は普通だった。
だが、温度がない。
笑っている。
礼もしている。
視聴者へ向けた説明も丁寧だ。
それでも、何かが薄い。
昨日まで少しずつ削れていたものが、さらに一段減ったように見えた。
隣の男が前へ出る。
年齢は俺たちより少し上に見えた。
槍を持ち、短く名乗る。
「今回は白石さんの戦闘検証に協力する。無駄な説明は省く」
コメント欄が少し荒れる。
「誰?」
「感じ悪くね?」
「企業系?」
「凛さん大丈夫?」
「なんか今日やばい」
凛はそのコメントを気にしない。
端末を一瞥して、すぐに視線をダンジョンへ向ける。
探索は始まった。
敵は強くない。
だが、パーティーの動きは妙に速かった。
会話が少ない。
合図も最小限。
誰かが楽しそうにする場面もない。
凛はその中で、ほとんど違和感なく動いていた。
違和感なく動けていることが、むしろ違和感だった。
ひなたが小さく言う。
「凛さん、あんな感じでしたっけ」
雪那は答えない。
画面の中で、凛の雷が敵の逃げ道を塞ぐ。
別の探索者がそこへ槍を突き込む。
無駄はない。
危なげもない。
ただ、見ていて息が詰まる。
ひなたがいつもの配信で作るような余白がない。
雪那の氷が作る静かな間もない。
俺が観察して判断するための一拍もない。
最初から、最後まで、最短だった。
戦闘が終わる。
凛がカメラを見る。
その目は、こちらを見ているわけではない。
画面越しにいる全員を等しく見ている。
そのはずなのに、俺だけに向けられたような気がした。
「黒崎悠斗」
フルネームで呼ばれた。
胸の奥がわずかに冷える。
コメントが一斉に流れた。
「名指し!?」
「黒崎呼ばれたぞ」
「何これ」
「果たし状?」
「空気怖い」
凛は表情を変えない。
「次は、あなたたちと正面から競いましょう。今の私に、どこまで対応できるか見たい」
敵意ではなかった。
怒りもない。
恨みもない。
挑発にしては、熱が足りない。
ただ、比較したい。
そう言っているように聞こえた。
ひなたが息を呑む。
「競うって……どういう意味ですか」
誰も答えられなかった。
配信画面の中で、凛はもう視線を外している。
言うべきことは終わったとでもいうように、次の戦闘準備へ戻っていく。
俺は拳を握った。
怒りより先に、嫌な感覚が来た。
凛が遠ざかっている。
手を伸ばせば届く場所にいるのに、何か一枚、透明な膜が挟まったみたいだった。
その時、準備室の扉が開いた。
「見たよ」
軽い声だった。
ルナリアが入ってくる。
配信用の姿ではない。
帽子を目深にかぶり、ラフな服装のまま、こちらへ歩いてきた。
ひなたが弾かれたように振り向く。
「ルナリアさん……」
「連絡しようと思ったけど、たぶん見てると思ったから来た」
ルナリアはテーブルの上の端末を見た。
画面の中では、凛が別パーティーの中心にいる。
いつもの凛の顔で。
いつもより薄い表情で。
ルナリアはしばらく黙っていた。
いつもの軽さが消えている。
からかうような笑みもない。
ただ、画面の奥を見ている。
俺は口を開く。
「昨日、白石が一瞬だけ止まった。本人も、その間の会話を覚えていなかった。今日は、これだ」
ルナリアは何も言わない。
数秒。
その沈黙が、やけに長かった。
やがて、彼女は低く言った。
「……移ってる」
誰も動かなかった。
ひなたの指が、端末の端を握りしめる。
雪那の視線が細くなる。
俺は聞き返すこともできなかった。
ルナリアは、画面から目を逸らさない。
「空の迷宮にいたものが、凛ちゃんへ移ってる」
その言葉で、部屋の温度が一段下がった気がした。
配信画面の中で、凛が小さく笑う。
それはいつもの笑顔に見えた。
けれど、その奥にある目だけが違っていた。
空の迷宮で見た、あの何かに似ていた。




