105話 触れる前に止まる
協会の検査室は、白い光で満たされていた。
空の迷宮の青とは違う。
風もない。
足場も揺れない。
壁も床も、きちんとそこにある。
それだけで、体の奥に残っていた緊張が少しずつ抜けていく。
検査用の椅子に座ったまま、俺は手首につけられた端末を外されるのを待っていた。
脈拍、魔力反応、外傷確認。
どれも簡易検査だが、何度も同じ項目を確認される。
救護班は慣れている。
俺たちより落ち着いていた。
ルナリアは別室へ運ばれている。
意識はまだ戻っていないが、呼吸は安定しているらしい。
それだけ聞けただけでも、少しは肩の力が抜けた。
隣の椅子では、ひなたがぐったりと背もたれに沈んでいた。
大鎌は検査室の壁際に立てかけられている。
本人より武器の方が元気そうに見える。
「もう、しばらく空は見たくないです……」
雪那が反対側で静かに答える。
「地面があるだけで十分ね」
「分かります。床って偉大ですね。ちゃんと止まってるだけで偉いです」
ひなたの言い方に、思わず息が漏れた。
笑ったつもりはなかった。
けれど、少しだけ笑えていた。
終わった。
少なくとも、今ここでは戦わなくていい。
その事実が、遅れて体に染みてくる。
凛は少し離れた場所で検査を受けていた。
肩の処置は先に済んでいる。
無理をしていた割には、立って歩ける状態だった。
俺はそちらへ視線を向ける。
「白石、肩は?」
凛は返事をしなかった。
ほんの一拍。
検査機の小さな電子音だけが、その間を埋める。
凛はゆっくり瞬きをしてから、こちらを見た。
「……あ、ごめん。肩なら大丈夫。少し痛むけど、動かせる」
声はいつも通りだった。
表情も崩れていない。
ひなたが椅子の上で体を起こす。
「いや、大丈夫じゃない人の返事でしたよ、それ」
「あなたに言われたくないわ。さっきから椅子に負けているでしょう」
「椅子は強敵ですから」
凛の返しは自然だった。
ひなたもすぐに笑う。
雪那も特に反応しない。
俺も、それ以上は聞かなかった。
疲れている。
全員そうだ。
協会スタッフが検査結果を端末へ送る。
重傷者なし。
要経過観察。
探索再開は最低数日後。
形式的な説明が続く。
神谷さんからの追加連絡はまだない。
ログの解析には時間がかかるらしい。
最後の一秒。
一致しない座標。
何もなかった最奥。
気になることは残っている。
だが、今ここで考えても答えは出ない。
ひなたが小さく手を上げる。
「ご飯って、いつ食べられます?」
スタッフが一瞬だけ固まった。
雪那が目を伏せる。
「元気ね」
「元気じゃないから食べるんです。回復にはご飯です」
その理屈に、俺は少しだけ安心した。
日常に戻る。
完全ではなくても、戻ろうとしている。
そう思える会話だった。
俺たちを案内していたスタッフが、出口側を示した。
「本日はこのまま帰宅して構いません。再検査は明日以降、協会から連絡します」
「今日はもう何もしなくていいってことですか?」
ひなたの声が少しだけ明るくなる。
スタッフは表情を変えずに頷いた。
「安静にしてください」
「安静、得意です」
「それは嘘ね」
雪那が即答する。
ひなたは不満そうに頬を膨らませたが、言い返す元気までは残っていないらしい。
そのやり取りが、妙にありがたかった。
検査が終わり、俺たちは廊下へ出た。
協会の廊下は人の出入りが多い。
担架、端末、スタッフの声。
空の迷宮の静けさとは真逆だった。
エレベーター前でひなたが伸びをした。
「今日はもう寝たいです。できれば明日も寝たいです」
「配信の通知、かなり来てるわよ」
凛が端末を見ながら言う。
「え、見たくないです。感想怖いです」
「大丈夫。ほとんど生存確認と神回って言葉よ」
いつもの調子に戻っている。
そう見えた。
廊下の壁には、さっきの配信切断を知らせる協会の告知が流れていた。
コメント欄はもう見えない。
けれど通知の数字だけは、まだ増え続けている。
ひなたがそれを見て、肩を落とす。
「うわ、あとで見るの怖いです」
「あなたはまず寝なさい」
雪那の声は淡々としていたが、少しだけ柔らかい。
それもまた、日常に戻ってきた証拠みたいに思えた。
凛はその会話を聞いて、小さく笑った。
俺は自分の手を軽く開く。
ルナリアへ掌底を入れた時の感触が、まだ少し残っていた。
まあいい。
今は考えても仕方ない。
中から、人の声が漏れてくる。
普段なら聞き流すだけのざわめきが、今は妙に現実味を持っていた。
ひなたがそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜く。
「人がいるって、安心しますね」
エレベーターが到着する。
扉が開く。
その直前、凛の左手が胸元へ上がりかけた。
触れる前に、止まる。




