104話 まだ繋がっている
光が切れた瞬間、足裏に硬い床の感触が戻った。
石じゃない。
整備された帰還ゲートの床だ。
空の迷宮の頼りない足場とは違う、動かない地面。
それだけで、身体の奥から力が抜けそうになった。
周囲に音が戻る。
人の声。
機材の駆動音。
救護班が走る足音。
現実の音だった。
俺はルナリアを背負ったまま、一歩だけ踏み出す。
膝がわずかに揺れた。
重さは普通だ。
床も動かない。
空間も沈まない。
それでも、踏んだ感覚だけが一拍遅れて胸へ届いた。
違和感は、まだ消えていない。
「負傷者確認。担架を」
協会スタッフの声が飛ぶ。
すぐに救護班が近づいてきた。
俺はルナリアを背中から下ろし、担架へ預ける。
彼女の呼吸は浅いが、乱れてはいない。
顔色も、さっきよりはましに見える。
ひなたがその場に座り込んだ。
大鎌を横へ置き、両手を膝につく。
「……帰って、これたんですよね?」
凛が細剣を下ろす。
肩を押さえる手には、まだ力が入っていた。
「少なくとも、ここは協会の帰還ゲートよ」
雪那は周囲を見てから、短く息を吐いた。
「空間は安定しているわ」
その言葉で、ようやく少しだけ現実味が戻る。
俺たちは戻ってきた。
ルナリアも連れてきた。
誰も欠けていない。
配信はまだ完全には切れていなかった。
試作機のカメラが、少し遅れて俺たちを追ってくる。
画面の端でコメントが弾けるように流れた。
「帰還きたあああ!」
「全員生きてる!」
「ルナリア無事なの!?」
「マジで神回だった」
「最後の黒崎なにした?」
「いや時間おかしくなかった?」
コメントの速度が速すぎて、すぐに読めなくなる。
だが最後の一つだけが、妙に残った。
時間。
俺は何も答えない。
答えられない。
救護班がルナリアを運び出す。
協会スタッフがひなたと凛にも声をかける。
雪那は軽く首を振って、自分で歩けると示した。
端末が鳴る。
神谷さんからだった。
音声だけが入る。
『帰還を確認した』
相変わらず声は淡々としている。
『負傷者は救護班へ回せ。黒崎、お前はその場を離れるな。簡易確認を行う』
「了解です」
『配信は協会側で停止する。記録は保全対象にする』
その直後、視界の端に表示が出た。
【協会権限により配信を停止します】
コメント欄がさらに加速する。
「え、切るの!?」
「アーカイブ残して!」
「最後の一秒見返したい!」
「今の絶対おかしかっただろ!」
表示が消える。
カメラの追尾音も止まった。
急に静かになる。
神谷さんの声だけが残った。
『外部ログとの照合は続ける。現時点で、お前たちの体感時間と観測時間に差がある可能性がある』
ひなたが顔を上げる。
「体感時間……?」
『断定はしない。確認中だ』
短い返答。
余計な説明はない。
俺は床を見る。
帰還ゲートの白いラインが真っ直ぐ伸びている。
何も歪んでいない。
何もずれていない。
そう見える。
だが、足裏だけが信用しきれない。
踏めている。
立てている。
なのに、体の奥だけがまだ空中に残っているみたいだった。
凛が一歩動いた。
その瞬間、彼女の足が止まる。
ほんの一瞬だけ。
誰も気にしないくらい短い停止だった。
俺だけが見た。
「白石?」
凛はすぐに顔を上げた。
「大丈夫。少し、疲れただけ」
声は普段通りだった。
表情も崩れていない。
だが、左手が一瞬だけ胸元へ触れかけて、途中で止まった。
雪那の視線がわずかに凛へ向く。
何かに気づいたのか、それともただ見ただけなのかは分からない。
雪那は何も言わなかった。
神谷さんの声が続く。
『黒崎。最後の戦闘で何が起きたか、今説明できるか』
俺は息を吐く。
「説明はできません。ただ、起きたことは覚えています」
『それでいい。詳細は後で聴取する』
そこで通信が一度途切れかける。
すぐに戻った。
『現場待機。救護後、別室へ移動しろ』
「了解」
通信が切れる。
協会スタッフが誘導を始める。
ルナリアはすでに奥へ運ばれている。
ひなたも救護班に肩を貸され、凛はそれを見ながら自分の足で歩こうとしていた。
俺はもう一度、帰還ゲートの床を見る。
光は消えている。
転送装置は止まっている。
空の迷宮の気配も、もうない。
帰ってきた。
そう思うには、材料は揃っている。
それでも、胸の奥で何かが噛み合わない。
最後の一秒。
何もなかった最奥。
一致しない座標。
そして、今の凛の一瞬の停止。
全部が別々の違和感に見えて、どこかで細く繋がっている気がした。
凛がこちらを見る。
「黒崎、行きましょう」
「ああ」
俺は短く返す。
歩き出す。
今度は床の感触が遅れなかった。
だが、安心するにはまだ早い。
救護室へ向かう通路の途中で、凛が一度だけ振り返った。
誰もいない帰還ゲートの方を。
その目に、ほんの一瞬だけ焦点の合わない空白があった。
次の瞬間には、いつもの凛に戻っている。
俺は何も言わなかった。
言えば、何かが確定してしまう気がした。
帰ってきたはずなのに。
まだ、どこかが繋がったままだった。




