103話 最後の1秒
ルナリアは、背負うと拍子抜けするほど軽かった。
さっきまで空域ごと押し潰していた重さは、もうどこにもない。
肩にかかる体温と、背中越しに聞こえる浅い呼吸だけが残っている。
ひなたは少し後ろを歩いていた。
大鎌を支えにしている。
凛は左。
雪那は右。
全員、無傷じゃない。
それでも、歩けている。
足場を渡るたび、砕けた石が靴裏で鳴った。
音はやけに小さい。
さっきまであれだけ暴れていた空域が、急に息を止めたみたいに静かだった。
静かすぎる。
俺は背負ったルナリアの位置を直す。
軽い。
軽いのに、違和感だけが重い。
最奥へ向かう通路は、崩れていなかった。
むしろ綺麗すぎた。
戦闘の余波がここだけ抜け落ちたみたいに、足場も壁も傷が少ない。
通路の先が開ける。
広い空間だった。
天井は高く、床は円形。
中央には何もない。
祭壇もない。
魔物もいない。
巨大な扉もない。
ただ、空っぽだった。
俺は足を止める。
違う。
ここは終点に見える。
だが、終点としての圧がない。
本来なら、何かがあるはずだ。
ルナリアの暴走とは別の、空の迷宮そのものの核。
少なくとも、そういうものが残っていなければおかしい。
視界の端で、試作機のカメラがふらつきながら追ってくる。
まだ配信は続いているらしい。
コメントが流れた。
「え、ここが最奥?」
「ボス部屋っぽいのに何もない」
「さっきのがボスだった?」
「いや違うだろ」
「マップおかしくね?」
「現在地、ボス前扱いになってない?」
コメントの流れが一度だけ速くなる。
画面越しに見ている連中も、同じところで引っかかっている。
ここが最奥なら、なぜボス前扱いなのか。
さっきの戦闘が終わったなら、なぜ部屋そのものに痕跡がないのか。
凛が端末を見ていた。
通信表示が乱れる。
何度か点滅したあと、音声が割り込んだ。
『黒崎。聞こえるか』
神谷さんの声だった。
雑音はある。
だが、声に揺れはない。
「聞こえます」
『現状を報告しろ』
「最奥らしき空間に到達。戦闘反応は消失。ルナリアさんは意識不明ですが、呼吸はあります。全員、生存しています」
『確認した。映像は受信している』
一拍だけ、雑音が挟まる。
『座標が一致していない』
ひなたが顔を上げた。
「え?」
神谷さんは淡々と続ける。
『外部ログ上、お前たちはまだボス前にいる』
空気が止まった。
俺は端末を見る。
『映像は最奥。だがダンジョン反応は一段手前に固定されている。現在地と観測座標が一致していない』
雪那が短く言う。
「空間座標の不一致」
『断定はしない。整合性が取れていない、という事実だけ確認している』
凛が端末を握る手に力を込めた。
「ログの欠損は?」
『ある。特に最後の一秒前後。映像、音声、センサー値が噛み合っていない』
最後の一秒。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
俺は何も言わない。
言えることもない。
あの一瞬に何が起きたのか、俺自身も説明できない。
ただ、あれがなければ全員終わっていた。
それだけは確かだった。
神谷さんの声は変わらない。
『現地での解析は不要だ。脱出を優先しろ』
「了解」
『空間内に外部転送装置があるはずだ。本来は最奥攻略後に起動する帰還ゲートだ。発見次第、全員で起動しろ』
通信はそこでわずかに乱れた。
完全には切れないが、いつ途切れてもおかしくない。
俺たちは空間の外周を確認する。
中央には何もない。
壁面にも扉はない。
だが、奥の床だけがわずかに沈んでいた。
近づくと、円形の紋様が浮かび上がる。
石に刻まれた転送装置。
ただし、位置がおかしい。
本来なら部屋の中央にあるはずだ。
ここでは外周に寄りすぎている。
まるで後から置き直されたみたいだった。
ひなたが眉を寄せる。
「これ、帰れるやつですか?」
「たぶん」
凛が端末をかざす。
「動力は残ってる。起動できそう」
雪那はルナリアを見た。
「長居する理由はないわ」
その通りだった。
違和感は残っている。
この空間も、ログも、最後の一秒も、全部が噛み合っていない。
だが、ここで答えを探す余裕はない。
俺はルナリアを背負い直し、転送装置の上へ足を乗せる。
ひなた、凛、雪那も続く。
石の紋様が淡く光る。
起動音は遅れて聞こえた。
光が先に立ち上がり、音だけが一拍遅れる。
俺は無意識に息を止めた。
視界が白く染まる。
転送が始まる。
その直前、足元の紋様がほんの一瞬だけずれた。
円が重なり、外れ、また重なる。
誰かが気づくほどの長さじゃない。
だが俺には、やけに長く見えた。
次の瞬間、身体が光に包まれる。
空の迷宮の最奥は、最後まで何もないままだった。




