102話 一瞬だけ触れた
☆
白石凛
黒崎が前へ出た瞬間、嫌な予感がした。
ひなたはもう落ちかけている。
雪那の氷は限界だった。
私も肩の痛みで、細剣を振るたびに一拍遅れる。
それでもまだ、誰かを庇うなら間に合うと思っていた。
黒崎だけが違った。
ひなたを見ていない。
私も見ていない。
雪那の足場も切っている。
助ける形を捨てて、まっすぐルナリアへ向かっていた。
普通じゃない。
そんなことは最初から分かっていた。
この戦いで一番おかしいのは、ずっと黒崎だった。
見えていないはずの圧を避ける。
外すはずの踏み込みが通る。
助からない一拍だけを、なぜか先に知っている。
でも、それが何なのかまでは分からなかった。
黒崎は何かを狙っている。
それだけは見ていれば分かる。
ただ、その“何か”だけが見えない。
ルナリアの重力が一点に集まる。
見えた瞬間、背中が冷えた。
あれは避けられない。
横へ切っても潰れる。
止まっても死ぬ。
前へ出れば、なおさら終わる。
なのに黒崎は止まらない。
呼吸が妙に静かだった。
一歩目を浅く置く。
二歩目で入る。
その踏み込みの癖は、この戦いの途中からずっと見てきた。
でも今は、それとも違う。
揃いすぎていた。
呼吸も。
歩幅も。
視線の切り方も。
何かを合わせているみたいに見えた。
「黒崎!」
呼んでも振り向かない。
それどころか、もっと深く入る。
重力が落ちた。
押し潰された。
そう見えた。
空間そのものが沈み、黒崎の身体ごと呑み込む。
間に合わないと思った。
助けに入る距離じゃない。
届く前に、私もまとめて潰される。
そのはずだった。
景色が、ずれた。
音が消えたわけじゃない。
けれど、聞こえるはずの破砕音だけが遅れた。
落ちる順番も、圧の重なり方も、全部がほんの少しだけ噛み合わない。
一瞬だけ、世界が引っかかったように見えた。
「……何?」
自分の声なのに、やけに遠く聞こえる。
黒崎はそこにいた。
押し潰されたはずの位置じゃない。
まだ踏み込める距離。
まだ息がある位置。
しかも、さっき見たはずの一瞬を、もう知っているみたいに迷いがない。
黒崎が笑った。
口元だけ、ほんの少し。
勝てると分かった人の顔だった。
ぞくり、とした。
怖かったわけじゃない。
理解できなかっただけだ。
なのに目が離せない。
今の一瞬で何が起きたのか分からないのに、黒崎だけがその先を見ている。
その事実が、妙に綺麗だった。
次の瞬間には、もうルナリアの懐へ入っている。
速い。
でも速さだけじゃない。
落ちるはずの重力を、最初からそこにないものみたいに抜けていく。
さっきまで何度やっても届かなかった距離へ、今度は当たり前みたいに滑り込んだ。
ルナリアの唇がわずかに動く。
「……ごめん」
その声だけは、はっきり聞こえた。
黒崎は短剣を振らなかった。
斬るんじゃないと、その瞬間に分かった。
右肩を沈める。
腰を落とす。
掌を開いたまま、まっすぐ胸の間へ叩き込む。
掌底。
鈍い衝撃が走る。
肉を打つ音じゃない。
もっと内側の、見えない何かがひび割れたような感覚だった。
次の瞬間、空域を押さえつけていた重さがほどける。
ひなたの身体が落ちきる前に止まる。
雪那の氷が砕けずに残る。
私の肩へ食い込んでいた圧も、急にただの痛みに変わる。
勝った。
そう理解するより先に、膝から力が抜けそうになった。
張り詰めていたものが、一気にほどける。
黒崎は崩れるルナリアを受け止める。
その姿だけ見れば、もう戦いは終わっていた。
それでも、胸の奥がざわついた。
終わったはずなのに、何かが残っている。
言葉にできるほど明確じゃない。
気配と呼ぶには弱すぎる。
それでも確かに、今消えたはずの違和感の一部が、空気の中を細く擦っていく。
ルナリアの視線が一瞬だけ横へ流れる。
その先にいたのは、私だった。
本当に一瞬だった。
次の瞬間には、もう焦点も消えている。
見間違いだと言われたら、それで終わる程度の短さ。
でも、その直後だった。
何かが、触れた。
皮膚じゃない。
肩でも腕でもない。
もっと内側の、輪郭の曖昧な場所。
冷たいとも熱いとも違う、細い異物感だけが一瞬だけ体の奥を掠める。
息が止まる。
でも痛みはない。
苦しさもない。
だから誰にも何も言えない。
黒崎はルナリアを支えたまま、まだ何かを探るように目を細めていた。
ひなたは座り込み、雪那は黙って氷を解いている。
誰も、私のこの違和感には気づいていない。
私も、まだ気づきたくなかった。
ただ一つだけは分かる。
さっき、何かが終わった。
それと同時に、何か別のものが始まった。




