花咲く祇園の夏
朱音との勉強会の二日目が終了した。しかし、朱音は学校には来ていたものの、解説もろくにせず、佑暉が与えられた問題をただ解くだけになり、自習のような時間になってしまった。しかもその間、彼女は相変わらずスマートフォンを弄っているだけだった。これでは、何のために登校しているのか分からないではないか。と、佑暉は色々な意味で疲労していたのである。
また、彼が両親のことを尋ねても朱音は依然として無視を決め込んでいた。佑暉もここ最近は彼女との接し方が分かってきたつもりでいるが、この話題を出した時だけは彼女の威圧的な態度に億劫になってしまう。
佑暉も母親の顔を見たことがないから、朱音の気持ちが少しは理解できる気がしたが、それは思い上がりなのだろうか……というようなことを考えながら、彼はバスや自動車がひっきりなしに行き交う四条通の脇を歩いていた。
花見小路通の前を通りがかると、佑暉はふと足を止めた。サキが働いている茶屋が見える。サキとは山鉾巡行の翌日の早朝以来、一度も会っていない。
あの日、門限を破っただけでなく、夜が明けるまで帰らなかったことで先輩の舞妓たちから責められたに違いない。もしかしたら自分が原因で、彼女はこれまで以上に忙しくなってしまったのではないか。そのような自責の念が佑暉を悩ませ、茶屋に近づけなくさせていた。
何故、うまく説得できなかったのだろう。もっと強く言って聞かせ、無理やりにでも置屋に帰すこともできたはずではないのか。そう考えると、ますます辟易してしまうのだ。
今日もサキは来ているだろうかとも思ったが、路地を抜けていく風が「帰れ」と囁いているような気がする。
結局、佑暉は花見小路通には入らず、そこを通り過ぎようとした。その瞬間、背後から少女のようなか細い声がかけられる。
「佑暉君?」
まさか、と佑暉は振り返った。数歩向こうに、舞妓姿のサキが立っている。思わぬところで彼女に会い、佑暉は少し焦りを感じた。
サキは、落ち着き払ったような澄んだ瞳で佑暉を見つめている。その立ち姿はいつにも増して毅然としていた。赤い着物に身を包んだ彼女は、まるで赤い可憐な花のように見えた。彼女からは甘い香りが漂い、それが風に乗って佑暉の鼻腔をくすぐる。佑暉の恍惚として、気持ちが少しずつ穏やかになっていくのが分かった。
すると、サキが京言葉で佑暉に話しかける。
「今日は、学校やったんどすか?」
「うん。補習……というか、同じクラスの人に勉強を見てもらってたんだ。君は、これからお座敷に行くの?」
佑暉が問い返すと、サキは首を振った。
「いいえ。一人前の舞妓になるまで、大きなお座敷には上がらせてもらえません。これから、ご贔屓さんのところへご挨拶回りに行くんどす」
舞妓でいる間は相手が誰であっても、京言葉を忘れない。そう思わせるほどのサキの雄弁な京言葉は、彼女の律儀さを映し出しているのかもしれない。佑暉は感服し、気づけばまた彼女に見とれてしまっていた。
不意に、サキを送り火に誘ってみようかという思考が現れるが、それもやはり迷惑だろうという思いによって掻き消される。密やかな願いと言い出せない悔しさとの葛藤の壁の前に膝をつき、佑暉の表情は曇ってしまう。それを看過しなかったサキは、彼にこんなことを言った。
「それより、今日はうちに伝えたいことがあったんとちゃいますか」
何もかもを見抜いたような彼女の物言いに対し、佑暉は唖然とする。それを見てさらに図星だと悟ったのか、サキは口に右手を当てながら笑った。彼女に隠しごとはできないと観念した佑暉は、赤面しながら正直に話した。
「十六日の送り火のこと、君も知ってるよね。実は、また彩香さんたちから誘われて、観に行くことになってるんだ。それで……よかったら君も一緒にどうかな。勿論、お稽古とかすでに予定が入ってるならいいけど」
「その日は、朝から晩まで空いています」
「本当?」
サキからの返答を聞いた佑暉は思わず、興奮したように叫んだ。断わられる予感がしていたから、純粋に嬉しかったのだ。そんな彼を見たサキは、また笑いを堪えながら言った。
「いうても、何度も行ったことあるんどすけど。そうそう、おすすめの場所があります」
「おすすめの場所?」
佑暉は好奇心の向くまま、目を輝かせながらきいた。
「へえ。大文字がよう見えるところを知っておりますので、当日ご案内します」
京都のことを熟知しているサキが言うのだから、間違いはないだろうと佑暉は一層楽しみになるのだった。するとサキが、
「では、もう行かなあきませんので」
とゆっくり頭を下げ、河原町通の方向へ歩いていった。佑暉も、彼女のその後ろ姿を見送った。腰のあたりからだらりと垂れ下がった西陣織の帯を揺らしながら、悠然たる足取りで歩いていく。やがて彼女が小さくなると、佑暉も反対方向へ歩き始めた。




