五山送り火
帰宅した佑暉は、自室で復習をした。佑暉は頭が悪いわけではないが、特段賢いというわけでもない。中学の頃は、平均より少し上くらいだった。
高校は己の学力に見合った受験して、問題なく合格した。しかし父の失業という思わぬ憂き目に遭い、本来入学するはずの高校に通えなくなってしまったのだ。それでやむを得ず京都の公立高校に入ったが、想像以上に全体のレベルが高く、佑暉の学力では授業についていくので精一杯だった。
慎二の料簡では、居候先から最も近いからという理由らしかった。佑暉としては多少遠くても、自分の学力に適した高校が良かったが、そんな我儘が通るわけもない。
机に向かい、一時間ほどが経った頃。佑暉のスマートフォンが机の上で震動した。鈍い音を響かせる携帯を手に取ると、そこには父の電話番号が表示されていた。
「もしもし?」
佑暉が電話に出ると、電波の向こうから慎二の低い声が聞こえた。
「やあ、佑暉か? 元気か? 今はまだ夏休みだったか」
元気そうな父の声を聞いて佑暉は安堵する。
「まだって……あと一ヶ月くらいあるよ」
「そうだったな、学生はいいなぁ。それよりお前、夏休みは何か用事があったりするのか?」
「今日は補習に行ってたんだ」
「そうなのか? 勉強、大変か? ごめんな、もっとお前に合った高校にお願いすれば良かったよな。だけど、ぎりぎりまで募集してたのがあそこしかなかったんだよ。あの学校も、色々あったみたいでな……」
途中から訥々たる口調になる慎二の言葉を聞いて、
「何かあったの?」
と、佑暉は尋ねた。
「あ、いや。よくは知らないが、調べたら少し前、あそこの生徒が暴力団絡みの事件を起こしたらしい。それがきっかけで、ここ二年くらいは志願者がめっきり減っているそうだ。まあ、こっちにしてみたら不幸中の幸いだけどな」
ははは、と耳許で笑う慎二の声を聞き、佑暉は苦笑いを浮かべた。笑いごとではないような気もした。
「そっちは大丈夫なのか?」
再び心配そうにきいてくる慎二に、佑暉は返した。
「うん。みんな優しいし、学校に行くのが楽しいんだ」
「そうか、それは良かった。それでだな、さっききこうとしたことなんだが、実はお盆辺りにやっと休みがとれそうなんだ。で、佑暉。よかったら夏休みの間、東京に帰って来ないか?」
予想外の父からの誘いに、佑暉はポッと頬を染めた。久しぶりに父に会える。そう思うだけで、彼の心には父との思い出が映し出された。
「いいの?」
「勿論だ。お前の家なんだぞ?」
「ありがとう、帰るよ」
「おう、いつでも帰って来い。待ってるからな」
慎二は笑っている。電話越しに流れてくる声が、それを佑暉に伝えた。
電話が切れると、佑暉はぼんやりと携帯の画面を見つめていた。四月に再就職し、新しい職場で疲れが溜まっているであろう父を、少しでも安心させたいと思った。この時、佑暉はそのためにやるべきことがあることに気がついた。
立ち上がり、部屋を出る。
厨房の暖簾をくぐると、正美が仲居たちとその日の夕餉の支度をしているところであった。
「すみません、いいですか」
「どうしたん?」
佑暉の声に反応し、正美は包丁を扱っていた手を止めた。
「あの……。父から電話がありまして、お盆に帰って来ないかっていう。それで……」
佑暉は言葉に詰まった。お盆ということもあって留守中に客が増えるのではないか、という不安がふと頭に浮かんだのだ。住まわせてもらっている見返りとして、少しでも旅館の助けになろうと決心したことをうっかり失念してしまっていた。
「それで、断ろうと思いまして」
「ええよ、こっちのことは気にせんで」
正美はすべて分かっているといったように笑う。不本意ながらも嘘をついてしまったことを申し訳なく思い、佑暉は「すみません」と謝った。ただ、心配なのは嘘ではない。
「だけど、旅館の方はいいんですか」
「大丈夫。毎年、うちらだけでやってきたんやから。だから、お父さんに元気な姿を見せたりや。きっと喜ぶよ」
佑暉は少し安堵し、正美に礼を言った。
「ありがとうございます。でも、それまではいつも通りお手伝いさせてください」
「うん、分かった」
正美は嬉しそうにまた微笑んだ。佑暉がそれを見ていると、背後から別の声が聞こえた。
「お母さん。十六日さ、うち出かけるけどいい?」
振り返ってみると、彩香が厨房に入ってきていた。
「出かけるってどこに?」
正美が彩香の方に目をやり、不思議そうに尋ねる。
「あーちゃんがな、送り火に行きたいねんて」
「ああ、あんたの友達か。べつにええよ。でも、最近は外国人ばっかりで全然風情ないで」
「うちもそう言ってんけど、毎年行ってるからって。部活もないし」
彩香は最後に「そういうことやから」と告げると、また暖簾をくぐっていった。佑暉はそんな二人の会話を聞いて、違和感を覚えた。そして佑暉も、正美に軽く頭を下げて厨房を出る。
廊下で彩香に追いつくと、後ろから彼女を呼び止めた。
「すみません」
「何?」
足を止めた彩香は振り返り、佑暉を見る。
「こんなこときくのは不躾かもしれませんが、十六日の宿泊予約数って分かりますか」
「んー、よく覚えてへんけど満室やったと思う」
「それなら、余計に女将さんに負担がかかりませんか。ただでさえ人が多いのに」
「佑暉君は?」
彩香は、十六日夜に留守にすることを佑暉から咎められたと思ったのか、気分を害したように少しだけ目を細めながらきく。
「僕はその日、多分ですが帰省してると思います。だから、手伝えないんです」
次第に、佑暉は俯いてしまった。すると、彩香が思いもよらないことを言い出した。
「べつに心配せんでいいで。夜はお客さんおらんし」
それを聞いて、佑暉は顔を上げる。
「どういうことですか?」
彩香の言うことが今ひとつ理解できずにいる佑暉に、彼女は補足した。
「その日に泊まるお客さんの殆どは送り火が目当てやから、夜はみんな留守にすんねん。だから、逆に十六日の夜は暇。毎年そうやから」
そんな話をすると、続けて、
「せっかくやし、佑暉君も来たら?」
と、彩香は言った。
誘われるとは思っていなかったので、佑暉は戸惑ってしまった。彼はまだ「送り火」というのがどういうものか要領を得ないが、興味があるのも確かだ。
「あ、でも東京帰るんやっけ。どうする?」
「送り火ってどういうものですか?」
佑暉が問い返すと、彩香は答えにくそうに片手をこめかみの辺りに添えた。
「えっと……京都の風習? みたいなやつ」
なんとか言葉を絞り出したようだったが、彩香の説明はあまりにも漠然としすぎている。表現も曖昧だったため、佑暉は部屋に戻った後、自分で調べることにした。すると、彩香はさらにこう付け加える。
「でも、うち的には見ておくべきやと思う。せっかく京都におるんやったらな」
とりあえず、佑暉は慎二に相談してみることにした。
「あとで父にきいてみます」
佑暉は自室に戻るとすぐ、電話をかけた。一回目のコールで慎二が出ると、佑暉は父に事情を説明した。ついでに父を送り火に誘ったが、お盆休みは十二日から十五日の間しかとれず、十六日からはまた仕事に戻らなくてはならない、と慎二は謝りながら話すのだった。
相談した結果、佑暉は十二日の夜から東京の実家で三泊し、十五日の夜に京都に帰ることになった。
通話が終了すると、佑暉はパソコンを開いて早速「京都 送り火」と検索した。そうするとトップページに、山に「大」という文字が点火された写真やイラストが多く出てきた。
正式には、「五山送り火」という名称である。起源は平安時代とも鎌倉時代とも言われ、「大」の他に「妙」や「法」、船形や鳥居形のものもあるという。それを知った佑暉は、さらに興味を持った。そして祇園祭の時と同様、色々と調べている間に太陽は隠れるように落ち、窓の外には闇が広がっていた。
写真の中の京都の山々に灯る文字や絵は、どれも幻想的だった。実際に目にすればもっと素晴らしいだろう、と佑暉は空想する。そして、京都のこの風物詩を誰かと共有したいと思う。その次に彼の脳裏に浮かんだのは、やはりサキの顔であった。




